2010年7月 2日 (金)

種の多様性について

これは、一見、わかりやすい多様性です。生物の「種」レベルの多様性。
種というのは、動物を特定する 場合に、「その個体」の前の段階の認識の単位で、分類学で扱う単位の一番細かいものです(亜種という形で個体群が識別される場合もあるので一番細かい、というのも言い過ぎかもしれませんが)。
例えば、ホンドタヌキ。例えば、クロメダ カ。あるいはスズメ、ハシブトガラス、ウグイス、とか。あと、ヒト、とか。

種の概念を厳密に考え始めると実は結構ややこしく、実は「人 類が、なんかそういう風に感じてしまう動物の違い」がベースにあるようです。それを厳密化するために解剖学的なアプローチが続けられてきました。最近では、これに遺伝子の分析を入れることでより精密化する、という事が行われているようです。「種」の定義の仕方も様々あるようで、一見自明の事のように見えて、実は結構手強い概念のようです。

が、それは、まあ、おいておいて。

生活するそれぞれの種は、環境の中でそれぞれの位置づけをもっている、というか、役割を持っている...というか、役割を演じています。
種の多様性を考えた場合、重要だなと思うのは、多様な種が「同じところに同時にいる」という事だと思います。つまり、 「環境」というものを想定しないといけないわけです。
まったく地理的に関連性のない、遠く離れた地域に生きる生物を離れ離れに1種2種と数えてみ ても生物多様性にはなりません。同じ環境の中で、同時に、それぞれの役割を演じながら多様である、という事が重要なわけですから。

つまり、ライブな状態で種が多様である事。

例えば、ある地域にある種の渡り鳥が渡ってこなくなったとします。その鳥が絶滅したわけではなく、その地域の環境的な要因で来なくなってしまった。この場合、種の多様性は失われているのでしょうか。その鳥(の種)はピンピンしているのだから、種の多様性は失われていないように見えますが、「その地域」においては失われている事になります。
つまり、種の数は減ってはいないけれど、種の「多様性」が失われている、というケースがあるわけです、というか、ほとんどはそういう事態なんだと思います。
最近、東京都には、ゲンゴロウが生息していないという判定を下されました。「日本の水生昆虫」という図鑑があったとして、その図鑑からゲンゴロウという種が消えることはありませんが、でも、東京都では「ゲンゴロウもいる」という種の多様は失われてしまったわけです。生物多様性という中で考える「種の多様性」とは、そんな風なごくローカルな問題なんだと思います。
だから、「東京にいなくなっても他の県に行けばいるわけだから安心、種の多様性は失われていない」と考えるのは間違いで、今、ここに、かつていた種が「いなくなった」という事が、種の多様性が失われた状態だと思います。

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種の多様性が失われる=ある種が絶滅してしまう、という事ではない。
絶滅しなくても、種の多様性は失われる。
だから、「種の多様性」と「種の絶滅」を隣あわせや対になる概念として扱うのはキケン。そもそもレイヤーが違う。
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あるローカルな環境を「ステージ」とイメージしたときに、そこに登場してくる「役」の数が多様性を決めているという風にも理解できる。
環境をステージ、種を登場人物として語る、というのは良いアイディアかも。

で、自分が小学生ぐらいだったとして、種の多様性は大切で、そこに暮らす生物が多種多様な状態を続けていかなればならない、という話を大人から聞いたとして、ごく素朴に疑問だろうなあ、と思うことがあります。
それは

「じゃあ、ゴキブリは?蚊とかハエは?畑の作物を食べるアオムシは?」

みたいな事です。いわゆる人間にとっての害虫は種の多様性の中に含まれてるの?
これは、50才の僕自身も素朴にギモンなんです、というか、当然種の多様性の中にヤツらも含まれているわけなんですが、人間としてどう対処するのが正解なのかよくわからない。
ゴキブリは維持しなければいけないのでしょうか。
まあ、今のところダントツで個体数は多そうですから特に気にしなくてもいいのでしょうが、生物多様性の一員にゴキブリも当然入っているわけですから、それに対してどう接すればいいのか、というのは、なんか、すっきりしないですね。
別にゴキブリ、毒もないし、殺す理由は「気持ち悪い」からなんですよね。いなくなって欲しい、と思うのは、当然人間のエゴです。

それと、人間を殺してしまうかもしれない生物をどう考えるのか。例えばコレラ菌とか病原性大腸菌とか。さらに、生態系の一部をなすものすべてを対 象とする なら、生物とはされていませんが、各種のウィルスも仲間に入ってきまますよね、多分。その中には病原性のものも含まれまれますよね...。

「じゃあ、ゴキブリは?」と質問されたときに、どう答えるのか。対象がコレラ菌なら、「キミが死にたくなければ殺すしかないでしょ」となるわけでしょうが、ゴキブリは?むずかしい。
まあ、僕は見つけたら即スリッパでたたきつぶしてますけど、そのたびに「じゃあ、ゴキブリは?」というギモンが頭の奥のほうに浮かびます。

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2010年6月28日 (月)

ブーメラン頭/ディプロカウルス

このところ蒸し暑くてさっぱりアタマが回らず、何か書いても文章がまとまりません...。ほんと、高温多湿は苦手です。というわけで、今回もCG生物図。
前回魚類だったので、今回は少し進化させて両生類です。

ディプロカウルスという、ペルム紀にいた完全水棲の両生類です。

Diplocaulus_06

ご覧のように、アタマの両側が極端に貼り出して、頭全体は三角形、というか、ブーメラン、というか、「く」の字型。
その頭のさきっぽの方に小さい眼が上を向いて付いています。上向きの眼から察するに、水底で生活していたのではないか、という事です。かわいい、というかひょうきん、というか憎めないやつです。

体長は60〜90センチという事なので、日本のオオサンショウウオぐらいのイメージですね。皮膚の質感なんかもオオサンショウウオを参考に復元してみました。表層はぬめっとしていて、その奥の皮膚は結構分厚い感じで存在感がある、という。
図の左が成体、右がまだ若い個体です。若い個体ではブーメランは発達しておらず、成長と共に頭の両側が伸びていくようです。
このブーメランの用途ですが、「性的ディスプレイ」とか「防御用の武器」とか「水流をとらえて泳ぎをコントロールするもの」とか諸説あります。

しかし、こういうCGを作っていて実感するのは、ネットのありがたさですね。
生物の復元図を作るためには色々と資料が必要なんですが、ネットがなかったら、僕のCGなんてほんと遅々として進まないに違いありません。恐竜ならいろんな図鑑も出ているので印刷物ベースで資料は手に入ると思いますが、なにせ、その資料ひとつひとつに何千円という値段がついているわけで。カンブリア紀の生物なんかだとその出版物資料も限られています。
今ならネットで検索すれば、かなり新しい知見まで知ることができるので、安いわはやいわで大助かりというわけです。

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2010年6月18日 (金)

恐魚:ダンクレオステウス

このところ、CGソフト、Blenderを使って古生物の復元図を作っているんですが、カンブリア生物に関しては、カンブリアンカフェというサイトで公開してまして、その他の恐竜ですとか、なんですとかをここですこしずつ公開してみようと思います。「公開するぞ」となると色々モデリングやテクスチャなども見直す機会になりますし。

というわけで、まずは、ダンクレオステウスという、デボン紀に栄えた魚です。

Photo

体長は数メートルから最大10メートルという巨大さ、ものすごく凶悪な顔と歯でもって、おそらく他の生物(もしくは同類)をバクバク喰っていたであろう巨大魚。まあ、あこがれの生物のひとつです。こやつが属する科は「ディニクチス科」、その意味は「恐魚」だそうです。
さきほど、わかりやすく「歯」と書きましたが、実はこの魚にはいわゆる「歯」はないのだそうで、口にぞろりと生えているのは実は「顎の骨」が凶器に変化したものだそうです。このあたりの乱暴で力まかせな感じもたまりませんね。動物の歯の起源はよく分かっていないそうですが、サメの類の皮膚が口腔に移動して成立した、という説があるようです。「歯」の起源は皮膚だということですね。だから生え変わったりできるわけですね、それに比較して、このダンクレオステウスの場合は、とりあえず凶器が欲しいから、てっとりばやく顎の骨を尖らせちゃった、という...。
この魚は、実は頭部の化石しか見つかってないそうで、という事から体の骨は化石になりにくい軟骨であったといわれているらしい。という事で、復元図も、体については諸説あるようです。まるでサメのような「泳ぎ回る」魚として描かれる場合もあるし、海底の泥の中に潜んで襲いかかる巨大ナマズのようなイメージで描かれる場合もあります。
この復元図の場合は、どちらかと後者のイメージ。泳いではいても、悠々と泳ぎ回るというわけではなく、海底をもぞもぞと這い回る、という風。現生の魚でいえばアフリカの肺魚のようなイメージで再現してみました。

こっちは生態復元図っぽいやつ。たまにCG見てもらっているCGデザイナーY君のリクエストに応えたもの。ポージングも大きな課題ではあるな~。

Dunkkleo_s2


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2010年6月16日 (水)

生物多様性という言葉

このご時世で、何かと話題にのぼる「生物多様性」という言葉。現代の重要なキーワードの一つなわけですが、これ、説明するとなるとけっこうやっかいな言葉です。
特に子供にわかるように説明しようとすると、ちょっと途方にくれるほどわかりにくい。
今回、「生物多様性の勉強」というカテゴリーを設けまして、何をやりたいかというと、最終的には、子供向けの生物多様性を解説するコンテンツを作ってみたいな、と。映像になるのか、Webコンテンツになるのか、まだわかりませんが、ちょっとトライしたい気持ちになっています。
具体的な対象は、小学校高学年から中学生。

そのための基礎資料作り&基礎勉強をやろうと思います。
基本的には、生物多様性とその周辺のワードを調べて、自分の解釈を付け加えていく、という作業になると思います。

しばらくは、まず本家の「生物多様性」という言葉を紐解きたいと思います。

●3つの生物多様性
生物多様性とは、ひらたく言ってしまうと、色んな生物が同時に存在している状態、という事だと思いますが、実際には、そうシンプルでもないようです。
生物多様性を成り立たせる「多様性」は3つあるそうです。
(1)遺伝子の多様性
(2)種の多様性
(3)環境の多様性

それぞれについては、後の投稿で詳しくみていきたいんですが、大まかに、パッと見、わかりにくいですね。
「生物多様性」というワード自体がとっつきにくい上に、一段階掘り下げるとさらにとっつきにくいものがしかも3つも現れる。

で、こういう場合、言葉をはしょりすぎている、というケースがままあるので、試しに、言葉をおぎなってみましょう。

(1)種内の遺伝子の多様性
(2)種の多様性
(3)種が暮らす環境の多様性

「種」を基準とした3要素の多様性というイメージでおぎなってみました。
少しわかりやすくなったような気がします。

順番はどうでしょう。
「種の多様性」を基準とするなら

(1)種の多様性
(2)種が暮らす環境の多様性
(3)種内の遺伝子の多様性

この順番の方がいいかなあ~。
まず種の多様性を考えて、その外的な多様性(環境)と、内的な多様性(遺伝子)を置く、という考え方。

まあ、いずれにしても、「ストーリー」にしないと理解も促進されず、記憶にも残りにくいので、この3つを、今後細かく見ながら方策を考えていくことにしたいと思います。
(実際にはこの3要素は渾然一体となっているはずで、そもそもこの3つをいわなきゃけないのかどうか、そのあたりも含めて検討かな)

●時間の概念
それと、生物多様性という言葉は「多様な生物が沢山いる」というイメージを喚起しますが、そのままでは時間の概念が希薄、という面もあるような気がします。
生物は機械や建物とちがって、変化する存在で、これまでずっと変化しつづけてきて、今の変化を続けています。この変化が持続しなければ、生物らしくないわけです。
今現在、自然界にある生物の多様性は、別の多様性へと変化していく途中にあるものです。そのあたりのイメージをうまく言えるといいのですが。

● ダイナミズム
生物多様性を形作る多様な生物は、ただそこにいるだけではなく、活動をしています。ある生物の活動が別の生物に影響し、その影響が複雑にからみあって「多様な」全体像(=環境といってもいいのかな)をカタチ作っている。そういう、「動いている」ダイナミックなイメージで伝わらないといけないと思います。
「ダイナミックな生命活動(どんなにミクロな場面であっても)」「(多様な生物が)相互に影響しあう」「多様な生物の活動が環境そのものを作ったり変えてしまったりする」...あたりも重要だと思います。

んーと、独り言的なものとして、ちょっと長期的にアプローチしてみようと思います。
とりあえず自分なりに気が済むまで考察を続けて、ストーリー化&プランニングに進もう思っています。

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2010年6月11日 (金)

サンプル数と想像力/ファンタジー

最近、カンブリア生物のCG図鑑「カンブリアン・カフェ」に来ていただける方の検索傾向を見ていたら、なんか「ネクトカリス」という生き物の種名検索ばかりが増えてきて、どうした事だ、と思っていたんですが、どうも最近、復元についての新説が発表されたんですね、それでか、と。
慌てて、新説にのっとった復元図をアップしたんですが、これが、なんだか「夢のない」生き物になっていて少しがっかりしたのでした(というのも変なんですがね)。

以前は、アタマは甲殻類、体は軟体動物、というキメラ的な摩訶不思議生物、という、鳴り物入りのモンスターだったんです。そのころはまだ化石は、カナダで一体しか発見されていなかったらしい。その一体をじいっと調べた結果、そういう変な生き物である、とそういう事になっていました。
ところが最近、別の地域で発見された多量の化石を調べたところ、「足が二本のイカ」みたいな動物であった、という事がわかったらしいのです。まあ、これでも十分変なものではありますが、以前のとんでもなさからはだいぶインパクトが減った感じはいなめません。

新旧復元をならべたもの。

少ない情報から人のアタマで考えるととんでもないモノになるけれど、沢山のサンプルを集めてしかり調べると、結構順当な路線に落ち着く。現実なんてそんなもんかも。自然は、厳しく「現実主義」なんだな、とあらためて思います。
確かに冷静に考えると、海中の生物なら重力も海水の粘性や成分も現在と似ているわけですから、「生きやすさ」を追求したら、現生の生物とそんなに変わるハズはないよな、と思います。

カンブリア紀にはハルキゲニアという生物もいて、こいつも最初は、竹馬のような足で歩き、背中に生えた管状の器官で食物を摂って...みたいな変な動物だったんですが、中国で大量に化石が見つかって調べた結果、背中に刺の生えた足の長いイモムシみたいな(ややふつーの)生物でした。これも「ワクワク...」から「あー、なるほど~」に格下げされちゃった生き物ですね。

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情報不足部分を想像で補った結果、ファンタジーが入り込んで、魅力的なものが出来る、というのは、確かにありますね。
伊藤若冲の描いた象なんかもそうだし、妖怪が生みだされてくる原理も、もそういう想像力なんだと思います。
で、キモは「最初のきっかけ(情報)が自然の中にある」という事だとおもうんです。イチから人間のアタマで「変な生き物を考えよう」としても、結局自分勝手なつまらないものにしかならない。最初に「たった1個の不完全な化石(→ネクトカリスやハルキゲニア)」とか、「不確かな知識=人から聞いた話(→若冲の象)」とか、「説明しがたい自然現象や心理状態・なかなか姿が見えない生物(→妖怪)」みたいな、既存のトリガーがあって、それを土台にして一生懸命出来上がったイメージだから面白いんだと思います。

ファンタジーの種になるものは、まずは現実の中にみつけなきゃいけないんだな、と思う次第です。まったくトリガー無しの「勝手な発想」は、イコール「(どんなに遠くへ行ったとしても)自分の脳味噌の限界」でしょう。そこを超えるには、自分の都合ではどうにもならない現実の種が必要なんじゃないかな。

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2010年6月 8日 (火)

昔作ったBGMが出てきた

数年前、とある展示大手N社が、インターネットテレビを運営していまして、そのディレクションを担当していました。広告費が集まらず、半年ほどで消滅してしまったんですが、HDDを整理していたらその時に作った番組のサントラが出てきました。
聞いてみたらちょっと面白かったので、ちょこっとマスタリングし直してアップしてみます。30分ほどあります。
長いのでテキトーに飛ばし聴きしていただけると...。

UENOISM BGM(32M)

ファイルは、仕事のデータ受け渡し用iDISK上に置いているので、容量が怪しくなってきたらそのうち削除するかもしれません。

上野界隈の史跡や文化施設、裏町をうろつくうんちく系散歩番組だったんですが、選曲予算もないので、ディレクションやりながら、アップルのSoundTrack Proで制作したものです。
なのでループ音源は90%STPについてくるアップルループ、一部にソニーから出ているAcid用のループ素材を使っています。

ループ使って音を作っていると、音楽を作るというのは音楽を聴くことなんだな、と思えてきますね。それと、自分のものという実感がわかないので、良くも悪くも音に対して責任感が軽くなる、なので短時間に作れる。楽器弾きながらではそうは行かないですよね、精神的にも。

僕のように、10代の頃、4トラックカセットで音楽作りを始めた(宅録ですよ)世代にとっては、ループシーケンサとか、有りネタをコンバインして音楽を作る世界というのは、なんか、変な感じですね。独特の居心地の悪さみたいなものがあります...「自分で出した音じゃない」からかな。
でも、まあ、楽しいですけどね。プレゼンなんかにも便利だし。

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2010年5月22日 (土)

コミュニケーション/受信感度

コミュニケーションについて思った事のメモ。

仕事の打合せの場で「コミュニケーション能力」というと、どうしても、自分の考えている事をいかに相手に伝えるか、みたいな事になってしまんですが、でもそれは間違っている。
コミュニケーション能力の基本というか大もとは「聴く力」でしょう。
それは、相手の言葉の意味を汲み取ったり解釈したりする力でもあるけれども、相手の声や表情からニュアンスを聞き取る、など言語化されていない情報をいかに受信出来るか、その感度の問題なのだと、まずは思うんです。
この感度がにぶってしまうと、相手のニュアンスがわからず、結局は相手との距離が図れなくなってしまうし、その状態で何かを一生懸命伝えようとすると、ますます距離を作ってしまい、ますます孤立する。

そうなんだよなあ。
仮に、打合せの場で、一言も発言できなかったり、注目も浴びず、良い所を見せられなかったとしても、相手が発信していることをきちんと受信できてさえいれば心配ない。
なのに、「何かを伝えなければ」と思ってしまうところに、ある種「つらさ」みたいなものが芽生えると思うんです。

情報発信ありきでコミュニケーションをとると、ついつい小さな妄想のようなものが入り込んだり、解釈が曲がってしまったり、意気込みのあまり思ってもいないことを伝えてしまったりします。
そういう状態で行われる打合せに、あまり実りはないんですよね、結局、ボタンがどこか掛け違ってしまっていて、あとでモメる。

存在感を示そう、ではなくて、相手の存在を感じよう、そういう事だろうと思います。
「ちゃんと受け止めました」という姿勢が相手に見えるだけで、コミュニケーションってほとんど成功しているのではないか。
双方向に何かを伝え合うコミュニケーションなんて、本当はかなり稀な出来事ではなんじゃないかなあ。
何かを伝え始めるのは、まず相手の事が「聴けて」それから、徐々にでいいし、なんか良い所を見せることができたとしても、それで相手が自分の事を好きになってくれるわけでもない。

その聴く能力は、「シンクロする能力」「共感する能力」みたいに言い換えてもいいと思います。

でもこれは、「空気読めよ」というのとは違います。
空気読めよ、はどちらかというと「場」の話ですが、それはコミュニケーションとは違います。それは、自分や他人を居心地よくするためのスキルで、まったく別の話。
空気ばかり読んでいると、逆に「聴く能力」はどんどん衰えていくのではないか。

相手が発している情報を受け止めて、それに対して、誠実にリアクションする、という事をするだけで、ほとんどの仕事は円滑に進行すると思います。
(まあ、うまく行かないケースというのもあるんだけど、それはもともと相手とそもそもの周波数が合わないからで、その場合、うまく行くようにするのは非常にやっかい)
結局は「相手が(何を言ったかよりも)何を思っているか」でしょう。

あいつ、我が強くてやりにくいよね、という場合、それは実は我が強いんじゃなくて、受信感度が低いという事なんじゃないか。

...と、最近、仕事上で感じた事を、ややもどかしい言い方で述べると、つまりは、まあ、こういう事だったりするかなあ、と。

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2010年5月18日 (火)

あんまり、モノを買わなくなった

最近、日本人、特に若者がモノを買わなくなったと言われています。
確かに自分を振り返ってみても、このところめっきりモノを買わなくなりました。
最近何を買ったかなあ、と考えてみても、その時々で必要なものを控えめに買っていたかも...といった感じで特筆すべき買い物が思い浮かびません。

この不景気でお金がないというのが理由、といえばそうも言えるのですがもう少し詳しく自分を点検してみると、「お金が無くて買わない」というのはひとつのきっかけで、なんだかモノがあまり欲しくならない体質になってしまったような気がします。

僕の年齢はほぼ50才で、世代論の区分で言えば新人類世代の最走り、血気盛んな若者時代をバブル景気の中で過ごし、ポストモダンなあれやこれやの唯中、モノを消費することで自己実現や自己主張をしてきた(と言われる)世代です。まあ、タイミングが悪くてオイシイ思いはちっともしてないんですが(忙しいばかりだった)。
ネット環境のほとんどなかった当時は、情報もイコール「モノ(本や雑誌、イベント)」でした。情報に敏感でいることとモノを買うことはイコールだったわけです。だから、なんやかんや言いながらモノは買っていました。良い消費者のひとりだったと思います。

しかし、そんな世代に属しながら、今若者の消費行動で良く話題にされる「嫌消費」というのも実感としてよくわかる気がする。
本来なら、僕らぐらいの年齢層から上の世代ががきちんと消費をして経済をひっぱっていかなきゃならないわけですが、この景気ではいかんともしがたい。なんとか生活の基本水準を維持しながら(住環境とか、仕事の環境とか)、以前のような消費をするのははっきり言ってムリですね。むしろ生活の基本水準も縮小したいぐらいです。
と、そんな環境で暮らしながら、モノを買う、ということに対する意識(というか生理かな)がだいぶ変わってきたような気がするわけです。

まあ、人間生きているわけで、生きているということは、「時間を生きている」わけでして、つまり、本質的に、人が消費しているものは「時間」ではないでしょうか。
時間を消費するにあたって、お金を使っていたのかな、これまでは、と思います。
で、今は、お金とか消費とは関係なく、どうしたら時間の消費の質を保つか、むしろ質を上げていけるか、という所に移ってきている、という気がします。

時間を消費していくにあたって様々な選択肢があり、お金を使ってモノやサービスを買うことでも時間を消費できるし、何も買わずに時間を消費することもできる。
大枚払って旅行に行っても、サンダル履きで近所を散歩しても時間は経っていきます。

モノを買わなくても時間を消費できる術を身につけ、それが「貧乏」ではなく、ひとつの「賢さ」として容認される時代、というか。それは、良い事のように思えます。

ひとつには、ネットの影響もあるのではないでしょうか。
何かを消費しなくても、インターネットで楽しめる色々な事がある。
リアルに何かをしようと思うとモノを買わない訳にはいきません。しかし、ネット上での様々にはお金がかかりません。ものすごく良いものはただでは手に入りませんが、そこそこ使えるものなら無料かごく低価格。それを使うだけで時間は過ぎていき、お金を使わなくて済むようになる。

僕は、週のうちかなりの時間を趣味でCGを作ることに費やしますが、そのソフトは無料です。
このブログだって、月に何百円、タバコ代より安い。
同じことを80年代半ばの状態で同じ事をやろうと思ったら、CGはハード込みで数百万円、ブログの記事をなんとかしようと思えば、ミニコミ出版しかなく、膨大なお金がかかる(消費する)。
でも、今 なら、こうして記事を書いたり、CGで遊んでいる僕にはほとんど金銭的なリスクはありません。

ネット以前の社会では、情報もすべてモノ(レコードや、本、雑誌、イベント、店舗)を使って流通していましたから、積極的に情報を得ようとすれば、そのままモノやサービスを買うことに直結していました。
現在では、ネットに接続していさえすれば、情報は(情報なら)無料で取り放題です。
今、3WK Under Ground Radioというインターネットラジオを聴きながらこれを書いていますが、この局で流されているアンダーグラウンドなロックは、80年代であれば、西新宿 あたりのマニアックな輸入盤店で、一枚1500円ぐらいのレコードを何枚も買わなければ聞けませんでした。それが今は、ネット経由で水道の蛇口から水が出るごと くどんどん流れてくる、しかも無料です。

今なら、テレビも持たず、新聞も読まず、外にも遊びに行かずに、ただネットだけ眺めて、しかも心豊かに一日を暮らす人もいるんじゃないでしょうか。
環境的には、そういう心豊かな引き篭もりを助長するようになってきていると思いますね。

お金を使わなければ時間が消費できないようじゃ、人生のスキルが足りないよね、的な?
なんか、この先、この日本でモノの消費が復活してモノがどんどん売れるような時代はこないんじゃないかという気がしてきます。

ばんばんモノを作って、どんどん売り、お金が回ってみんな豊かになっていく、というようなモデルはもう、少なくとも日本では崩壊しているのでしょう。
これまでの企業の宣伝もPRも「人はモノを買いたがっているはず」という前提に立っていたと思いますが、そもそも、その前提が無くなっているのではないか。その前提に立って企業がモノを言えばいうほど、消費者の共感から離れていってしまう、のではないか。
新しいモノを買うよりも、手持ちのモノや、安いサービスを自分の生活の中で使いこなしていく事や、組み合わせを発見したり、さらには、安いモノやサービスを自分で人に提供したりといった事が生活の中心になっていくような気がします。

それと、なにかやる、その都度お金を使って消費していたスタイルから、一度お金を使ったら、その時買ったものや得た知識でその先をずっと楽しんで行く、みたいな、それこそ、生活の仕方そのものがロングテール化していくような気もしますね。
その場合のロングテールは、「楽しみの量」とか「幸せの量」として見ると、細くて長い恐竜のしっぽではなくて、むしろ太くなっていく可能性のあるロングテールでしょう。ただ、消費という側面をみると、恐竜のしっぽ型の細くて長いもの、というような。

どんどん消費が回って景気が良くなってくれないと商売あがったりだよ~、と思う反面、新しい消費の倫理というか、心構え、みたいなものが出来上がってきたのかなという気がします。慎重に、大事に消費を行う世の中がはじまったのかもしれません。

企業の側も慎重に、大事に製品をつくるサイクルに入っていかざるをえなくなると思いますね。
まあ、もっとも、実際には、これまでのやり方を存続させる方が効率も良いわけで、「消費がまだある」アジアに出て行ってしまい、どんどん日本の企業としての輪郭があやふやになっていくのでしょう。
その隙に、国内で何かが熟成してくようになれば良いのですが。どうかな。

お高いランやバラの苗を育てるより、たまたま出窓の下に生えてきた名前もよく分からない植物を、誰に自慢するでもなく育てる事が楽しい、みたいな価値観を持てるかどうか、そのあたりが現代的な幸せを手にする秘訣なのかもな、と思ったりします。

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2010年5月15日 (土)

映像と言葉

目に包丁が突き刺さっている、とか
お腹が破れて不気味な生き物が飛び出してきている、とか
国会議事堂が燃え上がっている、とか
あとは、そうだなあ、現実の例だと、
打ち上げられたスペースシャトルが空中爆発している、とか
脱線した電車がマンションに突っ込んで蛇腹になってる、とか。

こういう強烈なイメージ=映像は、おそらく最速で脳に届いて、素早く反応を引き起こし強く記憶される。

● 映像の平均速度
でもしかし、そういう映像は実際のところ、ほんとうに稀なもので、世の中に存在するほとんどの映像はごく普通の街の風景だったり、普通に美味しそうな料理だったり、普通にかわいい女の子だったり、たいしてインパクトのないものなわけで。
という事は、映像って、情報の運び手としての平均速度というのはそう速くないと思う。
ここで言う「速度」というのはメディアとしての伝搬速度の事ではなく、視聴者なりが情報を受け取って(つまり見て)、反応するまでの時間、という意味なんですが。

映像は言葉よりもダイレクトに訴えかける、脳に、素早く届く、と思われがちなんですが実はそうでもないのではないか。
ものすごく速いインパクトのある映像と、ふらふらしているだけの映像とが混在している、というか。そういうものが映像なんじゃないか。

そして、そのほとんどは、「意味するもの=方向性」みたいなものも、どちらかと言えば曖昧、というか多義的です。現実が多義的なように、現実に酷似している映像というものも、また多義的なわけです。

●言葉の役割
映像のそういう「ばらばらな速度と方向性」を補完して「揃えていく」ののが「言葉」のような気がします。

こんな事を思ったきっかけは、テロップについて考えていたからなんですが。

内容によって速度に差があったり、方向性がちょっとふわついていたりする映像に対して、言葉は安定した速度で情報を運ぶ電車のような存在。

ふらついている映像に、テロップやナレーションなどで、言葉を追加することで安定した速度としっかりした方向を与えてやる、といったイメージ。

まだテロップの入っていない映像(いわゆる白完パケ)に、テロップを入れると完成度が高まって「締まった」感じになるのは、文字通り映像として完成した見た目のことばかりではなく、ちょっとふらついているカットやシーンが、テロップの言葉によって、方向性とか速度がはっきりするからなのではないかな、と思います。

この、イメージと言葉の組み合わせのしかたによっては、視聴者により強く訴えたり、逆に、意図的なミスリードを促したりすることも可能になるわけです。

考えてみれば、これは映像に限ったことではありませんね。
写真とそのキャプションやタイトル、紙芝居の絵とおじさんの語り、絵画の題名などもそうでしょう。

人間はイメージと言葉の組み合わせが好きなのだと思います。
どうしても、イメージを見ると、人は言葉が欲しくなる、イメージが言葉を呼び寄せるのでしょう。
絵手紙ブームなんていうのも、そういう事なのかもしれません。

●言葉は映像作品の芯みたいなものなのかも
僕は、映像作品は「情報の束」だと思っています。
映像と、音響と、言葉とが束になっているような状態をいつもイメージしてしまうんですが、この中で言葉は、その束の芯になっているものなのではないでしょうか。

昔から、良い映画が成立するための一番の条件は、良い脚本だということが言われますが、これは、映像作品=情報の束のための「芯=言葉」を強く、正しく作るという事なんだと思います。

●派生的に思うこと
こんな事を考えていて、他に浮かんでくるのは、以下などですね。

・映像にも言葉的な側面がある。
・言葉にも映像的な側面がある。
・映像につける音楽は、音楽の「言葉的側面」を発揮する場合がある。
・言葉で組み立てられた論理が良ければ良い作品になるわけではない。そこに「演出」という肥沃な領域がある。

映像と言葉の関係は、考え始めると深すぎる。

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2010年5月 7日 (金)

カンブリアン・カフェ

今年のお正月から、古生物のCGを作ってWeb図鑑を作るプロジェクトを始めました。
カンブリアン・カフェというのですが、Blenderを使って作ったカンブリア紀の生物復元図CGと簡単な解説を掲載していくものです。

カンブリアン・カフェ

とりあえず、今のところは、これまで習作として作ってきた3Dモデルを改良しながらアップしています。在庫が切れるとちょっと苦しくなりそうですが、今年中に50種ほどアップできればな〜と思っています。

カンブリア紀というのは、今から5憶7千万年ぐらい前から5憶年ぐらい前までの時期で、生物が劇的に多様化した時代です。
代表的な動物は、例えばアノマロカリス。
テレビ東京の人気経済番組、村上龍の「カンブリア宮殿」で、スタジオの背景ににょろにょろ泳ぎ回っている巨大ムカデ風の動物。こやつがカンブリア紀で最も成功した動物のひとつで、世界の海をそれこそ股にかけて、様々なタイプのものがいました。

アノマロカリスのカンブリアン・カフェバージョン。

Anomalocaris_canad_2010_02

このカンブリア紀の直前の時代は、エディアカラ紀と呼ばれていますが、これがどういう時代だったかというと、多細胞動物がいるにはいても、ほとんど海底に横たわったままだったり、サンゴのようにじっと固着していたり、動くものがいても、もぞもぞ海底を這っている、といった風。静かな時代でした。
ところが、カンブリア紀に入ると一転して、様々な「動き回る動物」が現れ、本格的に食物連鎖が成立して、現代まで続くわさわさと賑やかな時代に突入するわけです。

カンブリア紀は、動物という生き方が本格的に始まった時代で、体の様々な体制や、奇抜なデザインが実験されて、爆発的に多彩な動物が生まれました。いわゆるカンブリア大爆発と言われる状態です。
今注目されている「生物多様性」の原点がここにあるわけですね。

食う、食われるの関係でいえば、「食われる」動物は防御や逃走に焦点をあてて進化を続け、「食う」動物はどんどん進化していく「食われる」動物の性能を凌 駕すべく捕食性能を進化させる、そうして様々な動物が生まれていきました。こういうスパイラルは「共進化」と言って(その1タイプですが)、生物の進化や多様性のエンジンの一つです。
草食動物のウシやシカの仲間は、肉食獣のライオンやチーターに食べられますが、それを防ぐために、走るのが速く進化する。そうす ると、肉食獣の方も走るのが速くなったり、チームワークで狩りをする戦略で進化する。と同時に、体を大きくすることで肉食獣を避ける草食獣が現れたり、それに対抗するために大型化する肉食獣が生まれてくる、というふうに、食う食われるという関係の中で、動物が多様化していきます。
こういった原理の発端が、カンブリア紀にある、というわ けです。

現在この世に生きている動物の体の作りのバリエーションは殆どすべてがカンブリア紀に生まれています。例えばヒトは、脊椎動物に属しますが、その原型が生まれたのがカンブリア紀です。エビやカニ、昆虫といった外骨格を持つ節足動物は、ほぼ現在と似たような形でカンブリア紀に登場しています。貝やイカ、タコといった軟体動物の祖先が生まれたのもカンブリア紀、さらに節足動物と軟体動物が合体したような動物とか、現在の動物分類のどこにも収容できない奇妙奇天烈な動物も沢山いました。
とまあ、そういう壮絶な時代が、カンブリア紀だったわけですが、カンブリアン・カフェでは、その具体的な様相をカタログ的に展開していきたいと思っています。

古生物というとやはり恐竜がメジャーですが、恐竜出現はるか前の、こういう訳の分からない時代もオモシロイ。色々本を勉強しながら考えていると、いくらでも想 像が膨らむ、絶品のテーマだと思います。

もともと僕は「変なもの」好きで、特に変な動物は大好きです。
Blenderを勉強しはじめた理由も、このカンブリアンモンスター(あまりに奇妙なその姿に、カンブリア紀の生物はこう呼ばれています)を CG化したい!という欲望からでした。

仕事とは少し離れた部分で、こういうライフワークをやっていくのは楽しいですね。
さらに精進を続けたいと思います。

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