2017年12月28日 (木)

感想文:脳内整理ですべてうまくいく!(著:菅原洋平)

「すべてうまくいく!」とか、なんか変な啓発本みたいなタイトルですが、現役の作業療法士の著者が、脳の使い方を教えてくれる本です。いわば、「脳の取扱説明書」です。Kindle版を買って読んだのですが、なかなかおもしろかったです。

◯スキマ時間のスマホ
動物の視覚の使い方には2種類あるそうです。自分で望んで視覚情報を集めている「能動的視覚」。もうひとつは予期せぬものや事態に遭遇してそれに対処しなければならない「受動的視覚」です。前者と後者を比べた場合、後者の方が遥かにエネルギーを使うのだそうです。能動的視覚で得られた情報は「そのつもりでそうしている」情報ですが、「受動的視覚」で突然やってきた情報は、緊急に対処し判断を迫られる情報で、かなりのエネルギーを使ってしまいます。
それで、スマホです。電車に乗っている時、昼食をオーダーして出てくるまでの間、もしくは食べている最中、ついついスマホを取り出して、SNSをチェックしたり、何かの検索を始めてしまったりします。僕もそうでした。この本によれば、これによって現代人の脳が疲れてしまっているという側面がある、と。仕事はしていないし、体は動かしていないので休息になっているととらえがちですが、このスマホ作業をしている時の脳は、先のエネルギーを沢山使う「受動視覚」で情報を得ています。この間、脳は仕事をしていると同じぐらいのエネルギーを使っているそうです。特に脳は「判断」にかなりエネルギーを使うらしい。
なるほど、というわけで、最近、スキマ時間のスマホをやめてみました。
で、どうなったかというと、なんか脳がラク。
例えば二時間半の打ち合わせなんて絶対眠くなるに決まっているのですが、最近、ぜんぜんなりません。むしろ、終わってみて、アレ?二時間以上もやっていたのか、みたいな。なんか、最近弱り気味な集中力が少し戻ってきたかも?

◯脳はマルチタスクに非対応
脳の特徴の一つにマルチタスクができない、という点があるそうです。そんなことはない、いろんな事、同時にこなしてるよ、という方もいるでしょう。僕もそう思いました。ですが実態はそうではなく、1個1個の両立しない作業をぱっぱかチャンネルを変えるように切り替えているだけ。それだけなら良いのですが、このチャンネル切り替えをぱかぱかやる事それ自体に膨大なエネルギーがいるそうです。つまり、1個1個を順番にこなしていったほうが、エネルギー効率は高まる。
それと、作業が一見マルチタスク風になる理由のひとつとして、脳のエネルギーが足りていず、1個の作業に集中できなくなってしまって、次から次へと新しい作業を始めてしまう、という事もあるようです。

昔から親に、1個1個に集中してあちこちやり散らかさないように!なんて言われていました。どうも「散らかしグセ」がある僕としては、このクセ、なおさねば、と思っているところです。

こんなに脳のエネルギー効率を気にしなければならない理由は、脳はエネルギーを貯める仕組みが備わっていない、という事実にあります。一日の食事量に限界がある以上、脳が使えるエネルギーも一日ごとに限られています。どうでも良いところに効率の悪いエネルギーの使い方をしてしまうと、すぐにエネルギー切れになってしまったり、疲労の回復がはかどらなかったりする、というわけなのです。

◯前頭葉を黙らせろ
前頭葉は、脳の部位のなかでは、衝動を押さえて社会的行動をとったり、断片的な情報からまとまった意味を取り出したり、といった重要な働きをしています。が、この本によると「嘘つき」で「思い込みグセがある」のもこの前頭葉の特徴だそうです。
人間の脳は、この前頭葉と、現実の感覚情報を扱う頭頂葉と常にせめぎあいながら活動しているのだそうです。で、現実の感覚情報と前頭葉が考えた(感じた?)ことが矛盾してきたり、そもそも感覚情報が不足してきたりすると、前頭葉は勝手に現実とは違う「思い」を作り出してしまいます。これが被害妄想やいやな気分などストレスの元になり、それに対処するために脳のエネルギーを使ってしまう。適度に感覚刺激や運動の刺激を入れて前頭葉が暴走しないようにする必要があるのだそうで、これも、なるほどな、と。前頭葉ってなにか、人間らしさの源、みたいな「偉いもの」というイメージありますからね。むしろ厄介者、という側面があるようです。

◯脳は臓器
この他にも、脳の栄養のこととか、睡眠のことなど、色々書いてあります。
この本の最大の特徴は、胃や心臓を語るように、脳を内蔵の一種、つまりハードウェアとして語っているところです。脳のスペック、使い方、ケアの仕方、取り扱いのコツなどを具体的に説いています。臓器どころか、パソコンや自動車、芝刈り機のようなニュアンスで脳が語られます。なんかこれが小気味いい。
脳のために簡単に実行できることが、その理由と共に沢山書いてあるので、ちょっとやってみようかな、という気にさせてくれます。

Kindle版は628円で特売中!


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2017年12月17日 (日)

POMERA DM200は、黄泉の国からよみがえったオアシスポケットなのでは?

これで、移動中や移動先での執筆がラクになる。
久しぶりのモバイルガジェットを購入したのです。POMERA DM200。かつて、インターネットもない遠い遠い昔、出先での文章作成には、富士通のオアシスポケット(通称オアポケ)を使っていました。今はなき、富士通ワープロ専用機、オアシスシリーズのポケット版です。オアポケ亡き後、NECのWindowsCE機であるモバイルギアや、B5サイズWindows機シャープムラマサなどを、出先の文章書きに使ってきました。でも、どこかで、最初のオアシスポケットの幻影を求めていたような機がするのです。オアシスポケットは、いわゆるワープロに、ニフティサーブのパソコン通信機能がついた機能限定ミニパソコンでした。たとえば、出張先のホテルでナレーション原稿を書いたら、ニフティのテキストデータをファックスに送るサービスを使って、宿泊ホテルあてにファックス送信して、ファックスをプリンターみたいにして使ったりしてました。
で、このPOMERA DM200を見たとき、かつてのオアシスポケットの使用感の記憶がよみがえってきたのです。サイズ感もちょうどそんな感じです(二回りほど大きいですが)。

実際に、このPOMERADM200を使ってみると、キーピッチといい、打鍵のフィーリングといい、結構近いものがある。お帰り、オアシスポケット!
というわけで、電車の中や出張中のホテルなどで、文章を思いついたらすぐに書き留められる環境が手に入りました。この得がたい安心感に、実売3万5千円ほどの出費は安いものだと思います。(オアシスポケットは、なんだかんだで当時9万円ぐらいかかった)。
肝心の使用感ですが、なかなか気に入っています。

○画面
バックライトのついたモノクロの液晶で、表面がピッカピカのタイプです。映り込みは、面積があまり大きくないせいかそんなに気になりません。明るさは11段階で調整できます。視認性は良いです。サイズは7インチ。文字の大きさは6段階で調整できるので、結構老眼入ってきちゃったユーザーにも優しいです。

○キーボード
このサイズのキーボードとしては、優等生的なできばえでしょう。たまたま僕の手のサイズや打鍵の癖にマッチしているだけかもしれませんが、手持ちのマシンの中で最も高速に入力できます。クリック感も若干カチカチしていて好みです。ただ、あまりに長時間だと指先が痛くなってくるかもなあ。ソフトタッチが好みの方には合わないかもしれませんね。今もPOMERAで書いていますが、快適。

○ATOK
仮名漢字変換は、ATOKのPOMERA版ということで、これほんとにいいですね。辞書もなにもいじっていないのに、快適に変換できます。ふだんPCでははGoogle漢字変換を使っているのですが、変換の自然さは比べものになりません。

○Wifi
USBでPCとつなげば普通にストレージとして認識されるし、文書の保存先をSDカードにしれおけばカード経由でPCに持って行けるし、別にメーラーやブラウザが搭載されているわけではないので、この機能はマストというわけでもない気がします。一応、Wifi経由でMacOSとiOSのメモアプリと同期できたり、エヴァーノートと同期できたりするようです。OneDriveと同期できるような情報もありますね。PCでは、Simplenoteを愛用しているので、それと同期できると天国なんですけどね。「アップロード」という機能があって、自分のメールあてに書いた文章をメールできるんですが、これは時々使っています。

◯辞書
辞書は「角川類語新辞典.S」「明鏡国語辞典MX」「ジーニアス英和辞典MX」「ジーニアス和英辞典MX」が入っていて、辞書から編集中の文章へのコピペも可能です。

○高さ
こういう高さのないガジェットは打ち合わせや取材の時にも有用です。PCだとどうしても取材相手やインタビュー相手と自分との間に「壁」をつくってしまいがちです。でも、この手の背の低いガジェットだと自然に、それこそデジタルメモとして気楽に使えるのです。オアポケ~モバイルギアを使っていた頃には、たまたま、取材ものが多くて、話を聞きながらのメモに重宝していました。これも全く同じメリットがあると思います。

まだまだ使い込んでいないのでバッテリーの持ちとか検証できてないですが、なんかこれ、普段文章を書く、または文章を欠かざるを得ない人にとっては、まさしく「買い」ガジェットの予感がします。

まあ、人によっては「べつにノートPC持ち出せばいいじゃん」という意見もあると思いますが、たかだか「なぜ大型犬のほうが早死になのか」という十数文字のメモを残すためにレッツノート立ち上げたくないです。かといって紙のメモに残すと僕の場合は、時が汚すぎてあとで読めない、という事態になりがち。そうときに画面開いて5秒で入力可能で、電池長持ちなガジェットはありがたいのです。

サイズはちょっと大きいけれど、キーボードの使いやすいサイズを考慮するとしょうがないかもしれませんね。欲を言えば、もうちょっと軽ければなあ。プラスチックのぺかぺかした安っぽい出来でいいから、もっと軽いほうがうれしい。


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2017年12月16日 (土)

風呂敷良いですよ。

風呂敷がこんなに便利なものとは思わなかった。
風呂敷を活用してます!というと、お、和だね、和風だね、エコだね、とか下手をすると、和モダンでおしゃれ?的なバイアスがかかってしまいがちですが、まったくそんなものとは関係なく、ガチで便利です。

1)軽い
一枚の布なので、鞄として見ると驚異的な軽さです。これより軽い鞄はレジ袋ぐらいしかありません。

2)フレキシブル
入れる物が大きければ布をめいっぱい使って大きく、小さければそれなりにコンパクトに。

3)消える
メインの鞄(僕の場合はリュックですが)があって、サブバッグと使っている場合、状況によっていらなくなる場合があります。小さい鞄は入れる物がなくてもそれなりにかさばりますが、風呂敷ならたたんでリュックのポケットにでも入れれば、持ってなかったも同然に。まったく荷物にならない。

4)いろいろ使える
使おうと思えば、首巻きやてぬぐいにも使えます。

ネットで検索するといろいろな結び方、包み方がでてきますが、どうも、どれも「和モダン」なにおいがしてキモチ悪いので、自己流の超簡単な結び方をしています。
風呂敷をひろげたら、その真ん中に入れたいものをたららっと置き、まず対角線上の端を短めに結びます。蝶結びなどにすると足りなくなるので、束ねてえいやっと玉結びにしています。で、残った対角線上の端を長めに結び合わせてこっちと把手にして、ぶらげています。この長い方の結び方を調整すれば手提げにも、肩掛けにもなります。短めにするときは玉結びに、長めの時は布が節約できる真結びにしています。

この使い勝手を体験してしまうと、もう風呂敷手放せません。唯一難点は、クッション性がまったくないところです。だいたい動かすと中身はがしゃがしゃする。ショックに弱い物は何かケース入れるなりする必要があります。

風呂敷、実に機能的、実用的です。鞄みたいに使える上に中身によって容量はフレキシブルに変更できるし、なにより使わない時はただの一枚の布、このフレキシビリティと多機能性、というのが。風呂敷、おすすめです。

僕が使っているのはこれです。

ただの布にしちゃ、ちょっと高い?という気がしないでもないですが、結構しっかりしていて端のほつれもできません。
91センチ四方のサイズで、デカいのでは?と思われる方もいるかもしれませんが、そうでもありません。布の端同士を縛って袋状にするわけですが、縛るというのは結構布の面積を消費してしまうんですよね。これぐらいはないと小さすぎな気がします。

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2017年12月15日 (金)

Pファンク

やっぱりですね、アカ抜けしたおしゃれなものより泥臭いものの方が好きなんすよ。昨年の今頃はフェラ・クティにはまって、どろどろアフロビートを仕事のあいだじゅうずっと聴いてましたし、今年の正月は、ラモーンズ三昧でした。で、今ハマっているのがPファンク周辺のアレです。なにを今更とお思いの方もいらしゃるでしょうが…。一番好きなこの曲ファンカデリックの「Cosmic Slop」なんかジンと胸に迫るものがあります。しかし、このような珍妙なベースリフをどうやって思いつくのか。しかもかっこ良い。僕の中では、クラフトワークの「The Robots」と並んで二大珍妙ベースリフです。

(ところでCosmic Slopの邦訳は「宇宙的おしっこ」で良いのかな?歌詞の邦訳はここにあった

FANKという言葉そのものが、アフリカ的な泥臭さや臭いを表すスラングだったそうで、そもそもこの音楽の根本には、土着的なものが色濃くあるんですね。
しかもその土着性は、ほぼシステマチックと言っていいフレーズやリフの反復の中から、グルーヴとして生まれてくる。シャーマンの祈りや呪いと同じ幹から生えている別の枝なのでしょう。しかも、Pファンクの場合、世界観に「宇宙的」な妄想が入り込んでいるところもまた、シャーマンっぽい。

ファンクミュージックの解説を読むと、リズムの特徴は「一拍目を強調した16ビート」だそうで、先の「Cosmic Slop」なんか、典型的ですね。一拍目を強調したいので必然的に前の小節のお尻に弱起がくっつく。聞き続けると、小節の一拍目で、かるくアタマをコツンと、定期的に叩かれている感じが繰り返されてなんだかトランス状態になってきます。多少アドリブでフレーズが暴れても、小節の一拍目はそろって「ドン」とくるので気持ち良く、楽しくなってきますね。こういうお決まりのところでお決まりのようになる気持ちよさっていうのが、人間の快感のなかに書き込まれているのですね。だからこそお決まりを裏切る意外性というのも別の快感を生めるのでしょう。

こういうファンキーなビートというかリフというかグルーヴというかは、ワンフレーズ演奏されただけで自動的に「永遠につづく」というスイッチが入ってしまうようなところがあります。まあ、当然いつかは曲は終わるんですが、はじまったときにはそれは想定外、という感じがある。
ロックンロールっぽいエイトビートは工作物というかその曲をささえる構造物というイメージがあるんだけど、ファンクは、そういうのとは別もので、流れを造る、みたいなニュアンスかなあ。曲が始まるたびに、河を流しはじめる、という感覚のような気がします。

10ヶ月ぶりに記事書いた。また書こ。

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2017年2月 3日 (金)

このさきは。

先日、久しぶりに知り合いのプロダクションのプロマネ女史から連絡があり、ちょっとお話しませんか?と。
(こうして、半年以上もほったらかしのブログをさらっと書き始めるのだった…!)

天気予報では夜は冷え込むと言っていたものの、昼間はぽかぽかな午後早く、千駄ヶ谷にあるそのプロダクションの事務所を訪ねました。
JRの駅から将棋会館の方へあるいて、ちょっと時間があったので、鳩森神社でお参りしつつ、富士塚に登ってほほー、としたあと、多分数年ぶりの再会をしたのです。

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小ぎれいな日当たりの良いオフイスで、かのプロマネM女史と、そのプロダクションの社長でディレクター兼CGクリエイター兼プログラマというスーパーマルチなK氏と2時間ほど歓談したのです。
そもそも同業者とじっくり話し込むという機会も少なく、とても有意義な楽しい時間でした。
で、その日のテーマは、ざっくりしちゃうと「映像作りの仕事はどうなっちゃうの?」でしょうか、だったのかな?笑。で、結論は「よくわからんよね」なのですが…

いわゆるVPの制作で成り立っていた僕らのようなプロダクションは、だいたい100万円~数百万円の制作費の作品を、企業や広告代理店から受注して3ヶ月ぐらいかけて作る、それを同時並行で何本か抱える、というモデルで収益をあげていたわけです。
でも、最近、そういうレンジの仕事が激減しています。おそらくニホンウナギぐらいのヤバさで絶滅の危機に瀕しているのだと思います。実感値ですが。

僕もこのところ、映像の演出家というよりは、昨今のデジタル化した動画制作のノウハウをまとめて「自前動画制作」みたいなテーマで本を書いたり、Web媒体で連載やってみたり、セミナーで講師をしてみたり、これまでのプロダクション業務とは別のところに何か鍵穴はないか、と探していたわけでしたが…。
件のK氏も、最近は、Webアプリと映像からめて何かできないか、と色々とプログラムの試作をたくさん実験していたりして、やはりプロダクション業務とは別の鍵穴を探しているということでした。

で、雲行きからすると、結構難しい。
今の技術の流れは、アナログで大変だったところをデジタル化するとカンタンになるし、ラクになる、で、そこには「安くなる」が必ずくっついているので、マネタイズが難しくなる…結果、デジタルがらみで色々やっても儲からない、という事になるわけです。
最新のWebサービスも、結局マネタイズのポイントは広告か、物販か、コンサルか、という古来からの流れがそのまま受け継がれていて、先進的なサービスそのものが直接お金を生むわけではないですしね。

ちょっと方向を変えて考えてみると、VPの制作ということがひょっとしてピンポイントで沈んでいるのかもしれません。
考えてみれば、例えば、企業がブログを持っていて、YouTubeのチャンネルを持っていたとすると、従来VPが伝えてきた情報って、自分たちでなんとか伝えることができるんですよね。
ブログに写真と文章のせて、動画のインタビューなんかはスマホで撮影してYouTubeにあげればなんとかなるし。
その上で、「これだけでは足りない」、という場合に「のみ」われわれに発注がくるわけで。企業の情報発信という観点から見ると、VPの仕事は減って当然といえば当然かもしれません。

で、どうする?
話の中で、家に帰ってからも印象に残ったのは、K氏が言っていた、映像プロダクションの仕事は「撮影できる」「物語が作れる」の2つだという話。
この2つうち、僕が本質だと思うのは二つ目の「物語が作れる」という機能です。
しかも、読む物語だけではなく、時間軸のある物語が作れるという能力が、つきつめると、映像プロダクションというか、映像ディレクターの能力の「芯」のような気がします。

おそらく、映像のディレクターは、映像がわかる、ストーリーが語れる、(つきつめれば時間軸の構成を知っている)、という事を武器にした、なんか別の新しい職業になっていくのかもしれませんね…。
「時間軸の構成」は、映像にも音響にも、もっと言えばSNSのアカウント運用などにも応用のきく技術で、しかもかなり勘所の難しいものです。
しかも、これまでインターネット上ではあまり活躍することのなかったもので、これから本格的に使われていくものだと思います。

そして、プロダクションという事業も、デジタル化したコンテンツをとにかく生産する、マルチコンテンツ会社みたいになるしかないのか、と。テキストも、写真も映像も音響も、プログラムも立体的横断的にコンテンツを作る、編プロみたいな存在?
インターネットのおかげで、コンテンツそのものの需要は爆発的に大きくなっているわけですし。

と、そんな事を考えながら、先のプロダクションをおいとまし、千駄ヶ谷の駅に戻る道を間違えてうろうろしたあげく、偶然にも目の前に現れた原宿駅から電車にのって帰路についたのでした。

わたしのような真の、骨のある方向オンチにとっては、スマホのマップアプリなど全く役に立たないのですヨ…。

そういえば、もう立春ですね、今年はさらに時間の流れが速いような気がします。

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2016年7月 7日 (木)

感想文:「目の見えない人は世界をどう見ているか」

今回もKindle本です。
このところ、電車で読みふけっていました。

「目の見えない人は世界をどう見ているか」
伊藤亜紗 著 光文社

目が見えない人との交流やインタビューを通して、「視覚のない世界の捉え方」を考察した本です。著者は、生物学を学ぶ学生から美学の研究者にワープした変わり種。

かの福岡伸一さんが推薦文を書いています。

 【福岡伸一氏推薦】
 <見えない>ことは欠落ではなく、
 脳の内部に新しい扉が開かれること。
 テーマと展開も見事だが、なんといっても、
 やわらかで温度のある文体がすばらしい。
 驚くべき書き手が登場した。

前から気になっていたのですが、Kindle版が出ていたのでポチッとしたのでした。読みたい本はあるけれども、物理的に本が増えるのはちょっとこまるのです。かといって図書館に注文してもいつ読めるかわからんし。

著者は、目が見えない人の生活は、必要な感覚が欠落した不完全なものなのではなく、「それはそれで完全なもの」なのだといいます。
椅子を安定させるのには、4本脚で支える方法も、3本脚でささえる方法あります。そのように「方法が違う」だけだというのです。なるほど。

これが「障害者福祉本」であれば、視覚健常者優位の生活環境に講義し、ユニバーサルデザインなどを語るのかもしれませんが、この本の特異なところは、「それはそれとして、眼が見えない状態で世界を認識するのはどんな感じ?」に行くところです。眼が見えないことによって、体の使い方、認識の方法、想像力の在り方は、「私たち目が見えるひと」とはどう違う?

読み終わって印象に残ったり、考えたりしたことを書きます。

○目が見えない人は俯瞰的に世界を見ている
何か行動する場合、目が見える人の場合には、見える通りに動けば良いし、行動と視覚は一体化している。
ところが目が見えない人は、動くための俯瞰的な地図を頭のなかにイメージしないと動けない。いったん、自分いる環境をバーチャルなものとして頭のなかに作り上げ、それを基準や参考にして行動を取る。
目が見えない人は、いつも自分が置かれた状況を俯瞰的に捉え、イメージしているのではないかというのです。
これは、行動と視覚が一体化している目が見える人の感覚とはだいぶ違います。

ちょっと似ているのかも、と思ったのは、CGのモデリングをやっているときの頭の使い方です。
CGをやる人ならわかると思いますが、モデリング時には、いま自分が作っているものの前も後ろも、上も下も、全部が検討課題になります。今作っているものや空間の客観的な形や配置きちんと把握しないといけません。これは行動と一体化している日常生活の視覚体験にはないものです。視覚障害者の環境の捉え方は、この感覚に近いのかも、思いました。
レンダリングはいわば「撮影」なので、視覚健常者の感覚そのものですが、モデリングからレンダリングにうつるときって、なんか「モデリング世界から抜けてこっちにもどってくる」みたいな感覚があります。
目の見えないひとは、そのまま「モデリング世界」で生きているのかもしれない……。そう考えると、なんかイメージできるような気がしました。

○目が見えない人と見えている人では同じ環境でもその「姿」が違う
同じはらっぱに二種類の生物がいたとして、片方は、草をたべている、片方は小さな虫をたべているとします。この二種類の生物は、まったく食性(生き方)が異なり、発達しているセンサーも別々なので、この二匹には、同じはらっぱは別の世界のように認識されているだろう…これが、この本にも登場する「環世界」という概念です。生物学者のユクスキュルという人が提唱して、各方面に影響をあたえました。
この環世界という概念が目の見えない人の世界認識を理解するヒントになると書かれています。

目が見えているひと(五感のセンサー群をフルセットで持っているひと)と、目が見えない人(センサー群から視覚が取り除かれているひと)は、この二種類の生物のように、同じ環境にいても、認識している世界の「姿」は別々なのだ…ということらしい。
同じ世界でも、別々のレイヤーで認識している、みたいな。そう考えると世界の姿は、障害の数だけある、ということになりそう。面白いです。

○人の眼で見る
この本で一番おもしろく、示唆に飛んでいたのが、目が見えない人と見える人がグループになって「美術を鑑賞する」という試みについての部分。
ある美術作品を前に、目が見える人たちがそれぞれ、その作品がどうなっているかを説明する。説明は、どんなものがどう描いてあるのかという「情報」にとどまらず、その人が感じたこと、思い出したこと、触発されて考えたことなど主観的なものも含めて語る。そして、それを聞いた目の見えない人が、質問したり、さらに目に見える人が答えたり、感じたり考えたことを議論したり、という「言葉による美術作品の鑑賞」が行われる。
つまり、目が見える人と見えない人共通に機能する「言葉」を鑑賞の道具とすることで、目が見える、見えないを超えた「鑑賞体験」ができる。
作品が、「体験のトリガー」になる、ということですね。

ともすれば、一人で鑑賞して、何か思って終わる美術館賞が、目が見えない人にも一緒に鑑賞してもらうことで、言葉というメディアを必要とし、結果、見るだけでは得られない貴重な体験になっていくということらしい。これは作品にとっても幸せな事だと思います。
表現する、表現を受け取る、ということの本質的な意味、みたいなものがそこに立ち現れるということなのではないでしょうか。
この先、どんどんオンライン化して、個人化していく「表現」の未来を考える上で、とても示唆に富んでいると思いました。
考えてみれば、視覚というのは、物事を認識する手段としてはとても「速い」です。それに比べ、しゃべり言葉というどちらかというと「遅い」手段をからめることで、より作品を深く鑑賞することができる、ということなのかな、と思います。

この本を読んでいて感じたのは(多分著者の狙いの大きな部分でもあると思いますが)、視覚をもっていることが逆に「ハンディ」になる事もあるんだな、そして、視覚が無いことによってはじめて分かる世界もあるのかもしれない、と言うことです。
僕は映像の仕事をしているので、視覚表現をとても大切に、頼りにに思っていて、今後自分が何かの病気や事故で視覚を失ったらどんなに絶望するだろう、と考えていました。
しかし、この本を読むと、見えなくなったらなったで、また別のものが見えてくるのかも、と思えるようになりました。

障害者福祉に興味がある方だけじゃなく、むしろ、ものづくりをしていたり、なんらかの表現活動をされている方にぜひ読んでほしい本でした。


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2016年6月 8日 (水)

サーモス VECLOS 真空ワイヤレスポータブルスピーカー

今日は、超小型ワイアレススピーカーのレビューです。
魔法瓶のメーカーがその真空技術を使って作った真新しいオーディオ。
ステレオバージョンもありますが、より手軽なモノラルバージョンを使っています。ほとんど仕事のBGMです。
これは、「ちょっと変わった&気持ちの良い音」のするスピーカーだと思います。

ハウジングの内側に真空の層をつくり、スピーカーユニットの後ろ側から発生する振動を吸収させることで、クリアかつ超小型のスピーカーを実現したというもの。まさしく、小型魔法瓶の一端にスピーカーを取り付けた構造をしています。
Bluetoothでプレイヤーデバイスと接続します(いちおうアナログのAUXインもついてます)

この音をどう表現すれば適切なのか、ずっと考えていたのですが、思いついたのは「音楽の精巧なミニチュアが鳴っているという印象」というものです。
わかりにくい言い方かもしれませんが、音楽を、グリコのおまけサイズまで縮小しているのにディティールがはしょられていなくて、ちゃんとちっちゃいネジまで再現してあるじゃん、という感じ。音楽のパーツの細部まで聞こえます。
さすがにこのサイズでは、豊かな音にひたる…というのは無理ですが(モノラルバージョンですしね)、それにしても、ちゃんと全部きこえるぞ!という感じ。この感じは独特です。

あと、ボーカル域が豊かで声がきもちいいです。ジョアン・ジルベルト聴いてみましたが、文句なしにいいかんじです。バンドの音楽でも、イントロではちょっと物足りないかな、と感じられても、ボーカルが聞こえてきた瞬間に印象がガラッとかわります。

このスピーカーで音楽聞いていて思うのは、オーディオによる音の説得力のあり方には「迫力」以外の選択肢があるんだなあ、ということ。小さいのに無理して迫力を装う、ありがちな音とはかなり方向性が違います。
例えば、多分これはダメだろうと思ってレッド・ツェッペリン聴いてみましたが、意外にも結構聴けました。ギターやシンバルの音に芯があり、極小スピーカーにありがちな、ペラペラな感じがない。音に存在感があるということでしょうか。ボーカルの出がすごく良いのでロバート・プラントもそのままの印象でシャウトします。アコギの音もしっかりしていますね。結構いい感じで聴けました、もちろんミニチュアサイズで、迫力はないんですが…。

あと、音のダイナミクスがごまかしなく再現されている感じで、のっぺり感がまったくありません。小さい音は小さく、大きな音は大きく、そのまま、このスピーカーのスケールに置き換えられて鳴っているという印象です。まさに音楽の精巧なミニチュアです。

面白いスピーカーです。このシリーズの今後の展開に注目したいと思います。
値段が少し高めなのが難ですが…5千円台だったら爆発的に売れそうな気がします。

追記)ほんとに軽い!缶コーヒーの重さです。

ステレオバージョン。レビューの評判も良いようですね。


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2016年6月 2日 (木)

感想文:「小説家という職業」

森博嗣著、「作家の収支」が面白かったので、その少し前に書かれた「小説家という職業」も読んでみました。


著者が作家という仕事をどう捉え、どう実践してきたのかについて書かれた本です。創作一般に対する考え方や、創作をビジネスとし実践する場合の「設計の仕方」が書いてあります。
ちょっと特殊な作家のごく個人的なあれこれなので、そのまま一般化するのはムリがあるかと思いますが、何かと啓発される記述があちこちに散りばめられて楽しめました。

著者は、だいたい一日2時間の執筆時間で、二週間ぐらいで1作を書き上げ、その後しばらく寝かして、同じ時間をかけて推敲するそうです。そして、それを規則的に繰り返して、小説を量産していました(この本の執筆時、すでに引退宣言をして執筆は一日1時間、年に一作)。
こうして、淡々と作品を生み出し続け、作家の生活を続けてきたのです。

この本には、出版界に対する、辛辣な苦言もたくさんかかれています。冷静なはずの理系作家が、その部分になると、ぐっと記述が熱くなる……というのがちょっとほほえましい。
色々忸怩たる案件があったのかなあ。

なるほどな、と思ったのは、「小説家は滅びない」という主張です。出版社や取次、書店がいくらつぶれようが、小説を読みたい読者がある一定数存在しさえすれば、作家は安泰だというのです。
なにより小説家はたったひとりですべてを書き上げるため創作のためのコストが最小、設備投資もいらず、人件費もいりません。自分一人で書き上げ、収入はすべて自分のものです。
出版不況がさらに悪化し、出版社や流通がアウトになっても、文字が作家から読者へと流通すればいいのですから、ネットを使った配信と課金にシフトすればいいし、それが自然な姿だろう、ということ。これには、納得できます。

それと、創作をビジネスとして行う、というとハリウッドの映画ビジネスのように、大勢の人間が動いてしっかりマーケティングをやり、必ず売れるものを、工業製品のように創作するというイメージが浮かびますが、森博嗣の主張ははどうも、まったく逆です。むしろ小説ユーザーを数が限られたマイナーな存在としてとらえ、そこに深く切り込み、長く付き合うには、作家は真に自由に書き、小説としての凄みを持つべきだと書いています。マーケティングは意味がない。これらの知見はある意味、とても現代的だと思います。
著者は案外、方法論や仕事を遂行する姿勢が異なっているだけで、実は昔ながらの「小説業」を真摯にやっているだけなのだな、と思いました。

本書もまた、目先の変わったコンテンツ・ビジネス論として読むとおもしろいです。
ちなみに、私、森博嗣の小説は、多分ですが、「すべてがFになる」を読んだだけ(それもカミさんから借りて)です。小説も少し読んでみようかな。


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2016年6月 1日 (水)

大魔神怒る

前作に引き続き、カミさんがCS経由で捕獲したものを鑑賞。
ストーリーは前作同様、悪者城主が、近隣の豊かな土地を羨み、力づくで自分のものにしようとするが、これまた大魔神の怒りにふれて、ぶっころされるというもの。美しくも残酷な一本の糸にそって、するすると話が流れていきます。

監督は時代劇の巨匠、三隅研次。前作の大ヒットを受けて、特に特撮のテコ入れがすごい!
大量の水とガスを使った大魔神出現シーンなどは、いま見ても、というか、今見てだからこそ、よくやったなあ、これ、という大迫力ものです。
こういう特撮の「手応え」というのは、もう、現在の映画では望んでも得られない、贅沢なものになってしまいました。

ウィキをみたら、封切り時の併映は、「座頭市海を渡る


こんな二本立て、もし見たら大満足だろうなあ。
というか、多分見てるんだと思うんだ…子供だったから大魔神のほうしか覚えていないんだったろうな。

今のニッポンの状況からすると、大魔神そろそろ出てくるかもな。その姿が大地震じゃないことを祈る。

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2016年5月31日 (火)

消費税増税は再延期なんですね?

そーり、サミットで突然「リーマンショックが来ると思うぜ!」と言い出した理由は、「リーマンショック級の事態が予想されるから消費税増税延期する」という、姑息な作戦だと思ってたら、今度は、「そんなこと言ってないもん」と平然と言い放っているらしい。
どういうことなんだろう。じゃあ、消費税増税するってことなんじゃないの?
さっぱり訳がわからない、というのはこの事です。さらに、増税延期にもかかわらず「アベノミクスは成功だ!」としているのですから、事は大変に複雑です。二重三重に骨折してしまったかのような奇っ怪なことになっているようです。
「汚染水アンダーコントロール!」や「TPP反対なんて一言も言ったことない」といった珍発言以上のわけのわからなさ、筋の通らなさです。これらのどうにもわからない「不整合」にどう始末をつけるのでしょう?大きな疑問がわきます。それとも、始末なんてつけないのかな?危うい。憂鬱だ…。

<毎日新聞社説>首相の増税再延期 税の議論をゆがめるな


ビデオニュース.com 「リーマンショック前夜」を裏付ける資料を作ったのは誰か


リテラ ネットではとうとう「ホラッチョ安倍」の称号が

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2016年5月30日 (月)

感想文:「作家の収支」

ミステリー作家、森博嗣の印税生活の本。これまたKindle版で読みました。

いわゆる「夢の印税生活」の内訳が赤裸々?に書かれたとても興味深い本です。
職業作家がどうやってお金を得ているのか、その内訳が事細かに書かれています。
よく、今は本が売れない時代で、小説一本で食っていくなんてとても無理!という話はよく耳にします。が、この本によれば、作家は「意外に効率よくお金がもうかる」商売だということになります。
しかも、通常の庶民的な労働と収益の感覚からすれば、まさに「夢の」といえる、高収入っぷりです。

その秘密は、どうやら、ある一定のクオリティを持った本を、「たくさん出す」ことにあるらしい。
デビューの時に、すでに数冊分の「小説の蓄え」があり、それが次々に出版される、それぞれがある程度の評判を取ると、相乗効果で売れていく、すると、重版がかかったり、単行本が文庫化されたりしてまた印税が入る、そういうサイクルを、休むことなくどんどん続ける…ということで「夢の印税」で生活がまわっていくようです。

ポイントは、自らが著作権を持つ「コンテンツ資産」をとにかく積み上げていく、というところにあるようです。「こつこつ」と積み上げていくことでどれかが売れ、どれかが再発され、どれかがドラマ化、どれかが映画化され、電子化され、そのたびに収益があがっていく。
その実態は、コンテンツ資産の「運用」に近い、という印象。
単行本を一冊出すと、その本が重版を重ねつつ、何年か後に文庫として発売され、それもまた重版しつつ印税を生み出してくれる、一粒で何度もおいしいのが、小説というコンテンツの儲かるしくみのようです。

現在、著者は、作家引退宣言(?)をして、一日に執筆時間1時間、それでも生活には困らないのは、過去のコンテンツ資産が着々と印税を稼いでくれているからです。このあたりも「資産の運用」に近いですね。

「重要なのはコンスタントに書き続けることで、それには、たいして才能は必要ない」と著者は書いています。でもさすがに才能は必要だと思うし、これは「持てるもの」の余裕の発言だと思いますが、小説の執筆を「商品の生産」として捉える見方は、ちょっと刺激的です。
また、これらコンテンツ資産の運用は、「小説」という、時間がたっても古くならないものだからこそ、可能である、というところも気づかされます。
それと、結構癖のある理数系推理作家という、独特の作家の位置、本の位置づけも成功に関連しているかもしれません。読書人全員が読まなくても、熱心なファンのコミュニティの存在が、安定的な収益をささえているのです。このあたり、先の都築響一の戦略にも通じるところがありますね。

私自身も、これまで、何冊か本を書いていますが、正直、あまり収益が上がっているとは言いがたい。本を書くという手間と、手に入る印税の額を比較すると、うーむ、という感じはします。ただ、印税率が、森博嗣とそう違うわけでもない(ちょっと低めですが)。収益の低さは、ひとえに、印刷部数が少ないからです。私の書く本は実用書だったり、ニッチな内容だったりして、多くて数千部がせいぜい。印税は、まずは印刷した本の部数に応じて支払われるので、収益をあげるには、それなりの部数がすられる必要があるのです(出版社との契約にはバリエーションがありますが、一般論として)。そして、収益の「本番」は、ほぼ不労所得といっていい、増刷によるものですが、それもなかなかままならないのが実情です。特に実用書の場合は情報がすぐ古くなってしまって、息長く売ることが難しいのです。
となると、なるべく多くの人が買ってくれて、息長く売れる本で勝負することになります。やはりエンターテインメント小説が最も印税をかせいでくれるカテゴリーということになるでしょう。でもその分野である程度売れるものを書くのは至難のわざ、ということは、夢の印税生活は、やっぱり、凡人にとっては夢のまた夢なのでしょう…。

それでもこの本を読む価値があるのは、いわゆる「コンテンツ・ビジネス」の要諦を、作家と小説という最小単位を使ってことこまかに解説しているという点です。
ふむふむ、ふむふむ、ふむふむふむ…とあっというまに読み進み、かなり、勉強になりました。

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2016年5月26日 (木)

感想文:「圏外編集者」

これも話題の本。Kindle版で読みました。

「圏外編集者」」都築 響一 著

今、なにがしかのものづくりを生業にしている人にとっては、読んでおいたほうが良い重要な本という気がしました。

都築響一 氏の存在を知ったのは、はるか昔、テレビ番組のディレクターをしていた時でした。
フジテレビのワーズワースの冒険という番組で、「部屋」というテーマで番組を作っていたのです。その時の取材資料としてTOKYOStyleを購入し、まんまとその中の何軒かのお部屋を取材もさせてもらいました。
その時は、この分厚い写真集が、都筑氏のたったひとりの手で取材され、撮影され、編まれたのだということは知るよしもありませんでした。当時、パートパートの専門家がよってたかって作る民放キー局大規模制作体制にがっちり組み込まれた身としては想像もできませんでした。しかも、氏は、この本のために「はじめて」カメラを買い((しかも4×5!)」、撮影を自力で始めたという…「だってそうでしかできねえじゃん、これ」という思いとともに。
今回、この本で、TOKYOStyleの作られ方を知り、まさに「ほえー」という気持ちです。

この本、おそらく、僕と同じように、80年代~90年代初頭ぐらいから、がりがりものづくりをやっていた世代には、それが出版か、映像か、それともイラストか、音楽か、にかかわらず、面白く読めると思います。共感と若干の反発、そして、なにか、色々なものをつきつけられてしまいます。自分の姿勢に対する自省促す巨大な?マーク。
語りおろしであるところも、理屈っぽくならず読みやすい。

確かに都筑氏は、編集者として、ものづくりをする人として、業界的には特殊なのかもしれませんが、この本で語られている、その「作る動機」と行動はほんとうに、ごくまっとうです。このまっとうさが「異端」に見えてしまうほど、現在のものづくり業界はおかしなことになっているのかもしれない。
そうやって、まっとうにものを作ってきた都筑氏の現在の活躍の場は、個人の有料メルマガです。60才にならんとする大ベテラン編集者が出版業界から離れて、インディーズやってるというのが、現在の、いわゆる「業界」の不健康さを示しているのではないか。それは出版だけではなく、映像や音楽、アートだって。

都筑響一メールマガジン
http://roadsiders.com/

本の中では、このメルマガに関連して、現在のデジタル化されたものづくりやコミュニケーションについても触れています。その認識はいちいちその通り!と頷ける指摘ばかり、しかも実践がともなっているので説得力があります。
この本(話)の良いところは、結局、ものづくりを生業にするって、作る能力やセンスだけじゃなく、生活感覚やら、お金やら、健康状態やら、それこそ生きていることがそのまま全部反映されているもの、という前提で書かれているところ。
精神論や根性論とお金や生活の話が切り離されない、健全な状態で語られていると思いました。

思えば、私もそれこそ「圏外」的な欲望が人一倍強いはずだったし、そのせいでこんな仕事をしているわけですが、この本を読んで、その欲望の強度がこのところ弱まってしまい、いつのまにかやや普通のことしばかり考えるようになってしまっていたかもな、と反省させられました。

……これは超重大な問題だ。修行しなおす!

都築響一氏の著書は、過去、こちらでも感想文書いています。
「独居老人スタイル」


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2016年5月20日 (金)

感想文:「断片的なものの社会学」

「断片的なものの社会学」(岸政彦)という本を読みました。Kindle版です。
前々から評判を聞いて気になっていたのです。
社会的なマイノリティをインタビューしながら研究を進める社会学者が、その体験の中で得た「なんだかもやっとする瞬間」を書き連ねた本です。
社会学の本というより、不思議な感覚で読めるおもしろいエッセイだと思います。

冒頭近くに出てくるのは、こんなエピソード。

沖縄である人にインタビューしていると、その途中で、庭の方から「お父さん、犬が死んでるよ」という声がして、その取材対象のお父さんは、一瞬ことばを切ったが、また何事もなかったかのように続きを話し始めた。

というもの。
このエピソードで、なんか、ぐっと引き込まれました。良質な怪談をこっそり聞かされたようなショックです。
居間でその家のお父さんにインタビューしている、その時、庭の犬小屋で(かどうかわかりませんが)その家の犬が死んでいる、それを息子が見ている。でも、父はそれを十分わかりながら、何事もなかったように話の続きをはじめる。
なんだか、きまずいような、どう反応していいかわからなくなる瞬間です。
だからどうだとこうこともない、そういう体験を別に解釈するでもなく、ただ味わって、なんだか戸惑っている。
この本は、こんな感じのなんだか胸のざわつく、結論の出ない、宙吊りの体験がたくさんでてきます。
そこには、なにか、はかなさと同時に、切なさがあって、ちょっと胸がきゅんとする。

著者は、この世界はこのような断片の集まりで出来ているといいます。

本書の中で、著者が書いている自分のエピソードがあります。
子供のころ、そこらへんの小石をひろっては、そこにたまたまあった、しかも世界中に大量にある、何者でもない小石が、ひろったとたんに「この石」に変化してしまう「とほうもなさ」にうっとりしていたというのです。
この感覚は、よくわかるような気がします。
偶然何かにかかわり持ってしまった一期一会の話ではなく、拾わなかった膨大な数の「ほかの石」のとほうもない規模に呆然とする感覚だと思います。自分の外側にある世界の漠然とした、そして、とほうもない広さに呆然とする…たった一個の石を拾うだけなのに、なんだか宇宙空間に放り出されたような気分になる。

不思議、味わい深い本でした。
なんか、似たような感覚を味わったことがある、しかも大好きな作家で…と思ったら、内田百閒の「冥土」でした。質感がちょっと似ています。

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2016年5月11日 (水)

大魔神とフェラ・クティ

連休中に、カミさんが捕獲録画してあった「大魔神」を見た。
この映画はもう何度も見ているし、そもそも封切りの時に見た。大魔神プラモも買ったし、おもちゃも買った。少年漫画誌での大魔神特集も読んだ。
自分的には、そんな、子供の頃からの定番中の定番映画でした。

あらためて見てみると、そのストイックな脚本にため息がでますね。
「悪者が悪いことをするから、大魔神が出てきてぶっころす」という単純な一本の線。
しかも、大魔神そのものは、あんまり色々考えたり判断していなくて、純粋に「力」として存在している、それこそ、地震とか津波と同じような自然現象に近い描かれ方をしています(神、ですからね)。そのあたりのわきまえ方も素晴らしい。
映画「大魔神」の魅力は、もう、この脚本の素晴らしさにつきると思います。

特撮も、怪獣映画より縮尺が大きく、現物に近い壊れ方をするので迫力もあります。
シーンの作りこみや、人物の心の動きの描写も丁寧で、まっとうな時代劇の風格も十分です。

今回、カミさんがCS放送で捕獲してくれたのですが、こういう、寿命の長いコンテンツに度々触れられるというのは、多チャンネル化の恩恵ですね。CSが登場した当初は、これ以上チャンネル増やしてどうすんの?とも思っていましたが、コンテンツのアーカイブとして意義を獲得したと思います。

大魔神は子供の頃からの古い友人みたいなコンテンツですが、つい最近、ハマってしまっているものがあります。それが、アフロ・ビートの生みの親、フェラ・クティです。
アフロビートの生みの親といっても、フェラ・クティのバンド以外にそれを演奏しているミュージシャンがいるのかどうかよくわかりません。

とにかく延々長い曲をやっています。
アフリカンビート、といっていいのかもわかりませんが、大人数で延々ポリリズムを奏で、ホーン・セクションのリフがキメキメで聞こえてくる。
それをぬって、フェラ・クティのがなりボーカルと、うまいのか下手なのかどうにも不明な感じの、テナーサックスソロや、オルガンソロが聞こえます。これもフェラ・クティが演奏している模様。
全体的な印象としては、泥臭くて、複雑。
これにハマってはや一月近くになるんですが、未だに治らない。
この延々続く、ポリリズムがしっくり来すぎてやめる気になれないんです。音源はAppleミュージックですが、アルバム20枚ぐらい上がっているのでとっかえひっかえヘビロテしています。

歌詞もよくわからないし、黒人人権運動家でもあるフェラ・クティの政治的メッセージもよくわかりません。が、この戦う姿勢は伝わってきます。
なにかと、世の中に理不尽なことが多いこの昨今、この音楽の「負けない姿勢」が生理にぴったりハマったのかもしれません。


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2016年5月 2日 (月)

QuickTime Windows版 サポート終了

QuickTimeのWindows版に深刻な脆弱性がみつかって、アップルがサポートを停止しました。安全のために、アンインストールが推奨(もしくは勧告)されていますね。

http://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/20160428_755761.html

Premiereユーザーも少なからず影響を受けてしまいます。

アドビからのインフォメーション

https://forums.adobe.com/docs/DOC-7173

https://blogs.adobe.com/creativestation/video-apple-ends-support-for-quicktime-windows

PremierePro Windows版の使用で起こる問題とは…

●QT依存コーデックの問題
業務用途でよく使われるQT依存のコーデックは Apple ProResですが、これが使えなくなります。もともと、Windows環境ではこのコーデック使えないのですが、AppleからWindows用のデコーダーが提供されていて、再生だけはできました。なので、Mac環境から Apple ProResのQTファイルを渡されても、編集することはできたんですが…。これができなくなります。
同様に、アニメーションコーデックも使えなくなります。アニメーションコーデックは、書き出しもできるので、非圧縮画質を少しでも軽いファイルにしたい時にはよく使っていました。
この二種とも、ファイルの受け渡しや完パケなど、中間用や納品用のコーデックとしてはよく使われていると思います。
いずれも、代替手段を考える必要がありますね。

Proresに関しては収録に使われている場合もあるでしょう。収録はQTの Apple ProResで、編集はWindowsのPremiere、という仕事環境もそう特殊なものではないと思います。その場合は、さらに問題が大きいですね。収録フォーマットの変更を余儀なくされてしまいます。

●GoPro CineForm
最新版のPremiere ProCCには、GoPro CineFormというコーデックが入っていて、これがアドビイチオシの中間コーデックということらしい。メディアのQuickTime書き出しのプリセットとして、GoPro CineFormを使うものが提供されています。
実際、ちょこっと使ってみましたが、エンコードも軽く、画質もいいです。 Apple ProResの代替として十分だと思います。
ただ、問題なのは、PremiereやAEなどアドビのソフトじゃないと再生できないという点です。「軽いプレイヤーでちょっと確認」ということが面倒です。

●他の選択肢
要は、Windows、Mac 両環境で使用できる高画質高圧縮のコーデックがあればいいので、
グラスバレーの「Grass Valley Codec」 https://pro.grassvalley.jp/download/gv_codec_option.htm
もポピュラーな選択肢です。
Win環境からDVDのプレス工場へ持ち込む場合、このコーデックが推奨される場合もありますね。

いずれにしても、中間コーデックや納品用のコーデックは「相手先」がある話なので、なにかと面倒くさいです。

一般的なユーザーにとっては、特にWindows10になって、QTプレイヤーのお世話になる機会も減っているので大して影響はないと思うのですが、プロ用途だと、なにげに地味に役立っていたんですよね、QTプレイヤー。
この突然梯子を外す対応、ああ、やっぱりAppleっぽいわ。

追加参考リンク

http://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/20160419_754048.html

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2016年4月28日 (木)

Premiere Pro CCが快適に動くPCのスペックって?

私の仕事は映像を作ることなので、パソコンを使った映像編集環境はとても重要です。
編集は、adobeクリエティブクラウドを契約して、Premiereを中心にAfter Effectsなど使っていますが、たまに、「PremiereCCを快適に使うためには、PCにどんなスペックが必要なのか」というご質問をいただきます。
その人によって、というか、やっている作業によって、求められる「快適さ」は違うので、一概には言えないと思うのですが、これまでPremiereをインストールしてみて「わりと使えた」スペックを書いておこうと思います。

その1) マウスコンピュータの15インチノート
現在、仕事での編集作業に使っているメインマシンです。
これに外部ディスプレイをつなげて作業しています。

Intelcorei7 2.8G
メモリ 32G
グラフィック NVIDIA Quadro K300M

メモリ大盛りめなので、PremiereとAfter Effectsを両方立ち上げて作業してもさほどストレスありません。
グラフィックは非力め・モバイル用のQuadroですが、一応Cudaは効いて、レンダリング書き出しに一役買っているようです。

その2) DELLの省スペースデスクトップ OPTIPLEX990(SF)
最近、Blender専用マシンが必要になり、自宅用に中古で買いました。5万円ぐらい。

Intelcorei7 3.4G
メモリ 8G
Radeon HD 6450

Blenderのパフォーマンスに効くのははもっぱらCPU速度ということで、メモリは小さめ8Gでいいや、と。
この状態でも、Premiere単体ならそこそこ快適、機嫌よく働いてくれます。これを見るとやたらにメモリ積む必要ないんだな、と思います。
グラフィックボードがOpen GLをサポートしていないので、Cudaは効かないですが、Mercury Playback engineでプレビュー機能の強化は一応できている模様です。が、どの程度どうなのかはよくわかりません。
編集終わって書き出す時の計算が、上記マウスコンピュータの下手をすると2倍ぐらいかかることがあります。これはグラフィックボードの違いだと思います。

その3) オフィス仕事用ノート パナソニックLet's note CF-NX2
普段、事務作業や書類作成に使っているノートです。これはDELL購入以前に試しにやってみた程度です。(CCでインストールが認められているのは二台)。

Intelcorei5 2.6G
メモリ4G
グラフィック (オンボード)

このマシンでも、一応、HD解像度の簡単な作業なら実用的に使えます。ビデオトラック3つぐらいで済むようなちょっとした作業ならこれでもまあ、一応実用範囲内と思います。

以上、ご参考までに。
ざっくり、COre i7でメモリ8ギガあればいいじゃないかと。

あと、基本的なことですが、OSは64ビット版じゃないとインストールできません。
先のDELLも32ビット版のWin7がインストールしてあったのですが、64ビット版のWin10に無償アップグレードして使っています。

なんか、「最新のアーキテクチャーを実感したい!」とか、見た目カッコ良いのがいい!タッチ操作で仕事したい、などの希望がなければ、数年前のコアi7のマシンで十分仕事してくれるし、程度の良い中古が数万円で買えるのでおトク、という気がします。上記DELLとレッツノート、両方ともいわゆる企業向け製品の中古品です。こういうのは中古市場に出回るときには結構同時に大量に出るので、メモリとかオプションとか選択肢も結構あって買いやすいのでは。グラフィック性能も1世代か2世代古いわけですが、要は、許容できる速度で実用的に動くかどうかなので…。

編集環境が一つしかないと、とても不安です。PCはもろい機械ですから、予備のマシンは必須ですね。そういう意味でも安い中古PCはよい選択肢かも。理想的なスペックの最新マシンに大金を突っ込むよりも、安い中古をうまく選んでで副数の編集環境を用意しておくというのもいいと思います。

最後に繰り返しですが、「快適さ」は人それぞれ、編集しているプロジェクトそれぞれなので、ここに書いたのは、あくまで、私個人の「感想」です。

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2016年4月23日 (土)

熊本大分震災・もやもや

熊本の震災ですが、政府の対応、もやもやすることが多くて、忘れないようにメモしておきます。
明日は我が身かもしれませんから。

●最初の地震の直後、屋内退避を要請
大きな地震の時、十分な耐震性のない建物からはただちに出て、余震が収まるまでもどってはいけない、というのは中学生ぐらいなら結構知っている常識なんじゃないでしょうか。
この、ごく初歩的な間違った情報(指示・要請)を政府がだし、テレビ局が放送するというのは、確実に被害を拡大させたのではないでしょうか。なくなった方の多くが「圧死」だったということで、今後この「要請」との関係はしっかり検証されるべきだと思います。

●オスプレイ
国内に自衛隊の輸送用ヘリが何台もあるし、その一部は、オスプレイの何倍もの物資がはこべるそうです。
そんななか、オスプレイの出動をわざわざ米国に要請し、到着まで輸送を1日遅らせるというあえて後手な対応をしたのはなぜでしょう?政府は、自衛隊の能力を信頼していないということでしょうか?

●川内原発稼働中
隣県で、気象庁が「これまでの経験値が役にたたない」「進展が予想できない」と言っていて、震源域も東日本大震災以上の大きさをもつ震災が進行中なのに、そのまま動かしているというのは、誰が考えても危ないと思います。
この状況なら、普通、「大事をとって」停めるものじゃないでしょうか。
活断層の長さが想定以上で、さらに、今まで想定されていなかった地域も動いていると発表もありました。ということは現在の断層の知見は不十分なのです。どう進行していくのかわからない。
福島の原発崩壊で学んだのは「想定外は起きる」ということではなかったんでしょうか?その時点での科学的な知見と判断を超えた事態が起こりうるということを学んだのが東北の震災だと思っていました。
その想定外が、今起きています。先の震災で学んだんだから、それを今は活かすべきで、そういうことが科学的な姿勢だと思います。
それに「あぶなくなったら自動停止するようにできている」とか言っている大臣がいたようですが(能面のような印象の女性)、緊急自動停止は、起こってはいけない緊急な事態でそれ自体が重大事故です。緊急自動停止機能と「ストップボタン」は全然違います。

●首相、現地視察中止
なぜなんでしょう?誰にも納得できる、はっきりした理由は説明されていたのでしょうか。

●首相、現地視察
23日になって、現地に赴くようです。現地のタイミング的にはどうなんでしょう?むしろもう少し落ち着いてから来てもらったほうが良い、ということはないんでしょうか。

●TPP審議優先
熊本・大分の地震はは普通に考えて「未曾有の震災」だと思いますが、それよりもTPPの審議日程をこなすことを優先する理由はなんでしょう?

●大震災ではないという認識
気象庁をして「経験値が役にたたない」とまでいわせた震災で、これだけ広域に被害が及んでいるのに、大災害ではないと言い張るわけは?1週間以上経ってもまだ地震活動がおさまる気配がなく、一日何度も繰り返し大きな揺れがきています。同じ地域で震度7が2回観測されたのは観測史上はじめてのことです。
気象庁が言っているのは「この先どう推移するかわからない」なのですから、万全の対策を講じる必要があると思うのですが、にもかかわらず、緊急災害対策本部も設定せず、首相はもうすぐ欧州へ外遊するようです。

●激甚災害指定もされていない
未だに激甚災害指定もされていないのも変です。何か即効性がある指定ではありませんが、これがあるかないかで自治体のお金の使い方が違ってくる重要事項でしょう。過去の事例では、もっと小規模な災害でも、早期に指定されています。先例を重要視するお役所仕事として見ても、なんだかおかしいと思います。


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総合的にみて、この国の政府は、国民にあんまり興味がないのではないでしょうか?
それと、災害にしっかり対応する実力はもっていないような気がします。こんな様子では、いつ来るかわからない南海トラフs地震に対応できる気は残念ながら実感できません。
政府には、国土を強靭化する前に、災害にしっかり対応できる即応力や、柔軟な対応力、現地の状況を的確に描く想像力と、知性がほしいです。

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2016年4月17日 (日)

九州の地震…2

熊本と大分の地震。本当にお見舞い申し上げます。
こんな頻度で有感地震が起こっていたら、体も、それ以上に神経まいってしまいますよね。大変な天変地異です。地元の方々はほんとうに辛いと思います…、なんとか小康状態までこらえていただきたいと思います。

気象庁では、震源域がしだいに南に移ってきているとしていますね。これは、南西に伸びても、北東に伸びもも原発があって、心配です。
仮に原発じたいが無事だったとしても、周辺の送電設備が逝ってしまったらアウトだし、交通インフラの麻痺なども考えると万が一の場合の住民の避難もままならないのではないでしょうか?
本当に大丈夫なのでしょうか?これは、だれもが常識的に思う、ごく素朴な疑問だと思います。
マスコミも「異常がなく平常運転しています」としか言わないし、それって報道なのか、と。視聴者が気になっていること、疑問に思っていることに全くこたえようとしてませんよね。どこかの局のどれかの番組が特集として考察して当たり前の問題です。
やっぱり、マスコミは、政権に操られているのだと思わざるを得ません。テレビが寄り添うのは視聴者ではなかったんでしょうか?NHKは視聴者の出資で成り立っているし、民法も視聴者の信頼があるからこそ、スポンサーがCMを打つ価値があるわけですよね?

電力会社や政府は、ひょっとして、ここで止めたら負け、みたいなことを思っているのかなあ、だとしたら、本当に愚かですねえ。
これだけ大変な地震災害が起こっているのに、その上「原発大丈夫か?」という心配を地元のみなさん(+国民全員)に押し付けているのがわからんのかなあ。九電にしても、原発のおもりを一時的に軽減させて、停電の復旧にリソースを割いたほうが良いチョイスだとおもうんですが、そうは考えないんですね。まったく理解ができません。そんな子供みたいな連中が原発を動かしているのでしょうか?絶望的な気分になりますね。

今色々、「子供化」というか「幼児化」している感じがしているんですが、そのもっとも顕著な例が今の政治や経済を握ってるおじいちゃんたちだと思います。おじいちゃんが幼児化しているんですよね。経済一択でしか考えられない発想ってそもそも幼児的ですよ。幼稚園の先生のおっぱいで頭がいっぱいになってしまった幼稚園児のすがたが浮かんでしまいます。

この地震はほんと、今まで起こったことのない震災だと思います。この先、いつ収束するのかわからない。だって震源がどんどん移動していくわけですから。本震+余震がセットになって、フレッシュな場所に移っていく…、いつになったら収束するのか予測が難しいのだと思います。そのすぐ横で、原発が動いているというのが、どうしても異常に思えるのです。


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2016年4月16日 (土)

九州の地震…

居間でくつろいでいたら、なんか、ガツン、といった軽い衝撃があり、なんだろうと思っていたら、最初の熊本の地震でした。で、うちには、雷や地震動といった低周波に敏感な三毛猫がいるのですが、ガツンのあとも、彼女の緊張がどうも、解けない、なんか緊張しているんです。と思っていたら、二回目のM7.2が夜中に起きました。

九州の地震、心配です。亡くなった方にはご冥福をお祈りします。
避難中の皆様も、これだけの頻度で揺れ続けたら、ほんとうに参るでしょう。
本震→余震、といった今までの地震とは違う「群発大地震」といったこれまでなかった災害のようです。
5年前の東北とはまた違った災害ですが、その規模や、今までみたこともない、まるで地底怪獣が移動しているかのような異常な進行に、大きな不安を感じます。

しかし、近隣でこれだけ異常なことが起こっているのに、川内原発はなぜ、未だに動かしているのでしょう?
何かのチキンレースに挑戦しているのでしょうか?
ハードウェアがいくら大丈夫だとしても、これだけ危機が周辺にせまっていたら一応、「ぜったいに大丈夫」なのだとしても、大事を取ってとりあえず止める、というのが、良識的な判断だと思います。
人々が心配しているのは、ハード面の脆弱性についても確かにそうですが、それを運転・運用する電力会社や規制庁、政府の「頭」なんですよね。ちゃんと、ごく普通の、良識をもった、正常な判断ができているのでしょうか?そこに一番の不安があります。ふつう、万が一を考えて止めて様子をみるでしょう。すぐ隣の県で、M7以上なんだから。まして、今後も稼働したいならすぐに、止めて様子をみて、世間一般常識に則った原発運用をしていることを示すべきでしょう。
原発構内での揺れしか考慮していないかのように見える姿勢に、とっても危ういものを感じます。
原発とめたら電源がぁ、とか言っているひとも一部にいるようですが、それは心配ありません。今までだっとずっと止まってたんですから。事故っても被害が軽微な火力発電所を動かせばいいだけのはなしです。
電力の安定供給を担うべきは、原子力ではなく、電力会社なわけですからね。

今夜からの雨も心配です。おそらく火山灰の上に成立している阿蘇地方の地盤が…。
大きな二次災害がおこらないことを祈ります。

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2016年4月 9日 (土)

猫につきまして

猫好きです。ええ、猫好きですとも。断固として猫が好きです。
最近、うちでとっている朝日新聞で、夏目漱石の「我拝は猫である」のレトロ連載がはじまったので、猫についてひとこと。

↓我が家の最初の猫、クロネコ闇慈(あんじ)。世話焼きでやさしいいいやつでした。13才で他界。
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猫を飼っている方のおそらく98パーセントぐらいには理解していただけると思うのですが、猫とは、ニンゲンにとって「生活必需動物」です。
江戸時代、嫁入り道具の「づくし」を描いた絵図の中にも、鍋釜などの必需品にまじってしっかり一匹の猫が鎮座しているものがあります。

猫の居ない家は、例えてみれば、冷蔵庫のない家、風呂のない家のようなものです。なければないで、他に代替手段はなくはないものの(銭湯となね)、とても不便な生活を強いられる過酷で貧しい住まいです。一日の終わりに猫を膝にのっけられない生活は、精神的に非常な困難を強いられる寒々とした環境であることでしょう。
私は、子供のころから猫のある家に育ち、独立してからは20年以上猫のいる生活しています。猫を飼っていない人は、どうしてその寒々とした生活に耐えられているのか...

いくら障子をやぶられようが、じゅうたんが毛だらけになろうが、食器棚の上からゲロをまかれようが、多くの飼い主が「猫がいない生活よりは遥かにましだ、ありがとう!」と達観し、喜々として猫との生活に没入するのは、この「必需性」にあるのです。

猫が飼育されていた一番古い記録は、9千年前に遡るそうです。

最初は、ニンゲンが蓄えた穀物をねらう、例の鼠をねらって猫が近づいていったと思われます。そのうち、猫の鼠取りの腕前をニンゲンも当てにするようになった…。同時に、猫としてもニンゲンに色々と便宜を図ってもらい、意識するようになっていった。これが猫とニンゲンとの出会いのありそうなストーリーのひとつ。実際にどうだったのかはわかりません。

現在の猫とニンゲンとの関係は、この「そもそも」とはだいぶ変わって来ました。いやいや、もっと深まり、その本質が明らかになってきたというべきかもしれません。

人間生活の側からいえば、猫は野生動物ではありません。家畜です。家畜というのは、乳や肉をとる牛や、とんかつの原料たる豚などです。また、荷物を運ぶ馬やロバは労働力として役に立ちます。もう少し「産業的」ではない家畜である犬は、そもそも狩りのアシスタントで、つまり、家畜とは、人間の生活に、役に立つ動物のことです。

では、猫は???

猫ほど、ニンゲンの近くにいながら、くそのやくにも立たない動物もありません。うっかり猫の手を実際に借りてしまったら、仕事がはかどるどころではないでしょう。
では、なんで猫が家畜なのか…。

私は猫を、「メンタル家畜」と定義しています。ニンゲンの精神生活にとって「なくてはならないもの」を提供することが、猫とニンゲンとの間にかわされた契約なのです。

例えば、ああ、疲れたなー、でも仕事しなきゃなー、と思いながら座っている。そこに猫がやってきて、ひざの上にいそいそと乗ってくる。おお、来たか来たか、と背中を撫でているうち、15分か20分ぐらいは経っている。その内、猫はふいっと思い立ったかのようにどっかに行ってしまう。そこには、たった15分とはいえ、リフレッシュするに十分な休息の時間が創造されるのです。
逆の場合もまた…。ああ、こまったなあ、仕事ないよ、来月食えねえじゃん、困った…と思って座っている。そこに猫がやってきてひざの上に…(以下同様)。
どうせ、すぐに結論が出るわけでも、自分だけで結論がだせるわけでもない問題で、くたくたになるほど考え込むなんて、脳を劣化させるだけです。ちょっと休んで仕切り直すべき。そのタイミングを教えてくれるのが猫なのです。

ともすれば、あせって暴走してしまうニンゲンの脳の働きに適度に介入して休息をもたらすという、重要な仕事を猫はおこなっているのだと思います。
また、猫のもふもふの毛を撫でているだけで、脳内のセロトニンの分泌が促され、ストレスの解消になるという研究データもあるようです。

↓現在、うちの猫の最年長、三毛猫の気冴(けざや)。内弁慶のかわいいやつ。
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イエネコ発祥の地とも言われる、古代エジプトでは猫を神の地位にまで高め、あがめてさえいました。それも、この猫のなぜか発揮される特殊な能力ゆえかもしれません。猫とニンゲンとは、とかく、「ウマが合う」のです。

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