Kindle読書
気になる本がKindle化されていたら、ひとまず買う、ということを続けている。
そうすると当然、Kindleの中に「積ん読」が積み上がる。
昨年引っ越して、通勤時間が長くなり、しかも、そのうちトータル1時間程度は座っていられるという時間が出来た。なので、その「積ん読」を消化している。
読み方はてきとーちゃらんぽらんで、一冊をよんだらもう一冊というのではなく、ある本を読んでいてちょっと飽きてきたら閉じて、別の本を立ち上げる……それもちょっと飽きてきたらまた別の本、もしくは前の本に戻る、といった平行読みをしている。
そうすると、たまに不思議なこともおきる。養老孟司本で愛猫まるの死を語った部分にちょっとつらくなって閉じ、橋本治本をあけて読み始めたら、幼少の頃に飼っていた黒猫の死を語りはじめたり。Kindleの中でシンクロニシティが起こる。
それと、いろいろな本を切り替えながら読んでいくと、いつの間にか、共通のキーワードが浮かび上がってきたりする。それらの本を選んでいるということは、自分自身の問題意識と深く繋がっているにちがいないと思ったり。現在のところ、「無意識」「欲望」「知覚し得ない(けど確かに存在する)外部」などのキーワードが気になっているようだ。これに周辺のキーワードを補足すると「野生」とかか。理性とか効率などを礎にして、ヒトの都合でヒトのために構築した環境にちょっと息が詰まっているのかもしれない。
養老孟司風にいうと「ああすれば、こうなる」だけで構築された世界への違和感というか不快感というか。この数年、そういう、どんどん計画し、制御しようとする空気が濃厚になってきているような気がしている。
世の中、白と黒でできているわけではなくて、いろんなグレーで出来ている。そのグレーをどう解釈するのか、というのが面倒臭いけれど味わい深いのに、と思う。なのに、このグレーは白なのか、黒なのか、という議論ばっかりしている。それは白でも黒でもなく、そういうグレーなんだと思うよ。
90年代ぐらいまでは、まだ「あやふやなでグレー」、正義とも悪とも言えない領域が解釈もされずに豊富にあったような気がする。それこそ私が青春を過ごした80年代なんて、正悪がごった煮状態のほぼ野蛮な時代だった。そこにある種のおおらかさや、はみ出して気持ち良がったり、常軌を逸することを空想したり、なんなら実行する自由があったような気がする。いまや、息苦しい「正しい事」のみが押しつけられている。
いつもはですます調で書いているのだが、今回はやめてみた。そのほうが独り言としてふさわしいような気がしたから。
近所で二宮金次郎をみつけた。





