2016年7月 7日 (木)

感想文:「目の見えない人は世界をどう見ているか」

今回もKindle本です。
このところ、電車で読みふけっていました。

「目の見えない人は世界をどう見ているか」
伊藤亜紗 著 光文社

目が見えない人との交流やインタビューを通して、「視覚のない世界の捉え方」を考察した本です。著者は、生物学を学ぶ学生から美学の研究者にワープした変わり種。

かの福岡伸一さんが推薦文を書いています。

 【福岡伸一氏推薦】
 <見えない>ことは欠落ではなく、
 脳の内部に新しい扉が開かれること。
 テーマと展開も見事だが、なんといっても、
 やわらかで温度のある文体がすばらしい。
 驚くべき書き手が登場した。

前から気になっていたのですが、Kindle版が出ていたのでポチッとしたのでした。読みたい本はあるけれども、物理的に本が増えるのはちょっとこまるのです。かといって図書館に注文してもいつ読めるかわからんし。

著者は、目が見えない人の生活は、必要な感覚が欠落した不完全なものなのではなく、「それはそれで完全なもの」なのだといいます。
椅子を安定させるのには、4本脚で支える方法も、3本脚でささえる方法あります。そのように「方法が違う」だけだというのです。なるほど。

これが「障害者福祉本」であれば、視覚健常者優位の生活環境に講義し、ユニバーサルデザインなどを語るのかもしれませんが、この本の特異なところは、「それはそれとして、眼が見えない状態で世界を認識するのはどんな感じ?」に行くところです。眼が見えないことによって、体の使い方、認識の方法、想像力の在り方は、「私たち目が見えるひと」とはどう違う?

読み終わって印象に残ったり、考えたりしたことを書きます。

○目が見えない人は俯瞰的に世界を見ている
何か行動する場合、目が見える人の場合には、見える通りに動けば良いし、行動と視覚は一体化している。
ところが目が見えない人は、動くための俯瞰的な地図を頭のなかにイメージしないと動けない。いったん、自分いる環境をバーチャルなものとして頭のなかに作り上げ、それを基準や参考にして行動を取る。
目が見えない人は、いつも自分が置かれた状況を俯瞰的に捉え、イメージしているのではないかというのです。
これは、行動と視覚が一体化している目が見える人の感覚とはだいぶ違います。

ちょっと似ているのかも、と思ったのは、CGのモデリングをやっているときの頭の使い方です。
CGをやる人ならわかると思いますが、モデリング時には、いま自分が作っているものの前も後ろも、上も下も、全部が検討課題になります。今作っているものや空間の客観的な形や配置きちんと把握しないといけません。これは行動と一体化している日常生活の視覚体験にはないものです。視覚障害者の環境の捉え方は、この感覚に近いのかも、思いました。
レンダリングはいわば「撮影」なので、視覚健常者の感覚そのものですが、モデリングからレンダリングにうつるときって、なんか「モデリング世界から抜けてこっちにもどってくる」みたいな感覚があります。
目の見えないひとは、そのまま「モデリング世界」で生きているのかもしれない……。そう考えると、なんかイメージできるような気がしました。

○目が見えない人と見えている人では同じ環境でもその「姿」が違う
同じはらっぱに二種類の生物がいたとして、片方は、草をたべている、片方は小さな虫をたべているとします。この二種類の生物は、まったく食性(生き方)が異なり、発達しているセンサーも別々なので、この二匹には、同じはらっぱは別の世界のように認識されているだろう…これが、この本にも登場する「環世界」という概念です。生物学者のユクスキュルという人が提唱して、各方面に影響をあたえました。
この環世界という概念が目の見えない人の世界認識を理解するヒントになると書かれています。

目が見えているひと(五感のセンサー群をフルセットで持っているひと)と、目が見えない人(センサー群から視覚が取り除かれているひと)は、この二種類の生物のように、同じ環境にいても、認識している世界の「姿」は別々なのだ…ということらしい。
同じ世界でも、別々のレイヤーで認識している、みたいな。そう考えると世界の姿は、障害の数だけある、ということになりそう。面白いです。

○人の眼で見る
この本で一番おもしろく、示唆に飛んでいたのが、目が見えない人と見える人がグループになって「美術を鑑賞する」という試みについての部分。
ある美術作品を前に、目が見える人たちがそれぞれ、その作品がどうなっているかを説明する。説明は、どんなものがどう描いてあるのかという「情報」にとどまらず、その人が感じたこと、思い出したこと、触発されて考えたことなど主観的なものも含めて語る。そして、それを聞いた目の見えない人が、質問したり、さらに目に見える人が答えたり、感じたり考えたことを議論したり、という「言葉による美術作品の鑑賞」が行われる。
つまり、目が見える人と見えない人共通に機能する「言葉」を鑑賞の道具とすることで、目が見える、見えないを超えた「鑑賞体験」ができる。
作品が、「体験のトリガー」になる、ということですね。

ともすれば、一人で鑑賞して、何か思って終わる美術館賞が、目が見えない人にも一緒に鑑賞してもらうことで、言葉というメディアを必要とし、結果、見るだけでは得られない貴重な体験になっていくということらしい。これは作品にとっても幸せな事だと思います。
表現する、表現を受け取る、ということの本質的な意味、みたいなものがそこに立ち現れるということなのではないでしょうか。
この先、どんどんオンライン化して、個人化していく「表現」の未来を考える上で、とても示唆に富んでいると思いました。
考えてみれば、視覚というのは、物事を認識する手段としてはとても「速い」です。それに比べ、しゃべり言葉というどちらかというと「遅い」手段をからめることで、より作品を深く鑑賞することができる、ということなのかな、と思います。

この本を読んでいて感じたのは(多分著者の狙いの大きな部分でもあると思いますが)、視覚をもっていることが逆に「ハンディ」になる事もあるんだな、そして、視覚が無いことによってはじめて分かる世界もあるのかもしれない、と言うことです。
僕は映像の仕事をしているので、視覚表現をとても大切に、頼りにに思っていて、今後自分が何かの病気や事故で視覚を失ったらどんなに絶望するだろう、と考えていました。
しかし、この本を読むと、見えなくなったらなったで、また別のものが見えてくるのかも、と思えるようになりました。

障害者福祉に興味がある方だけじゃなく、むしろ、ものづくりをしていたり、なんらかの表現活動をされている方にぜひ読んでほしい本でした。


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2016年6月 2日 (木)

感想文:「小説家という職業」

森博嗣著、「作家の収支」が面白かったので、その少し前に書かれた「小説家という職業」も読んでみました。


著者が作家という仕事をどう捉え、どう実践してきたのかについて書かれた本です。創作一般に対する考え方や、創作をビジネスとし実践する場合の「設計の仕方」が書いてあります。
ちょっと特殊な作家のごく個人的なあれこれなので、そのまま一般化するのはムリがあるかと思いますが、何かと啓発される記述があちこちに散りばめられて楽しめました。

著者は、だいたい一日2時間の執筆時間で、二週間ぐらいで1作を書き上げ、その後しばらく寝かして、同じ時間をかけて推敲するそうです。そして、それを規則的に繰り返して、小説を量産していました(この本の執筆時、すでに引退宣言をして執筆は一日1時間、年に一作)。
こうして、淡々と作品を生み出し続け、作家の生活を続けてきたのです。

この本には、出版界に対する、辛辣な苦言もたくさんかかれています。冷静なはずの理系作家が、その部分になると、ぐっと記述が熱くなる……というのがちょっとほほえましい。
色々忸怩たる案件があったのかなあ。

なるほどな、と思ったのは、「小説家は滅びない」という主張です。出版社や取次、書店がいくらつぶれようが、小説を読みたい読者がある一定数存在しさえすれば、作家は安泰だというのです。
なにより小説家はたったひとりですべてを書き上げるため創作のためのコストが最小、設備投資もいらず、人件費もいりません。自分一人で書き上げ、収入はすべて自分のものです。
出版不況がさらに悪化し、出版社や流通がアウトになっても、文字が作家から読者へと流通すればいいのですから、ネットを使った配信と課金にシフトすればいいし、それが自然な姿だろう、ということ。これには、納得できます。

それと、創作をビジネスとして行う、というとハリウッドの映画ビジネスのように、大勢の人間が動いてしっかりマーケティングをやり、必ず売れるものを、工業製品のように創作するというイメージが浮かびますが、森博嗣の主張ははどうも、まったく逆です。むしろ小説ユーザーを数が限られたマイナーな存在としてとらえ、そこに深く切り込み、長く付き合うには、作家は真に自由に書き、小説としての凄みを持つべきだと書いています。マーケティングは意味がない。これらの知見はある意味、とても現代的だと思います。
著者は案外、方法論や仕事を遂行する姿勢が異なっているだけで、実は昔ながらの「小説業」を真摯にやっているだけなのだな、と思いました。

本書もまた、目先の変わったコンテンツ・ビジネス論として読むとおもしろいです。
ちなみに、私、森博嗣の小説は、多分ですが、「すべてがFになる」を読んだだけ(それもカミさんから借りて)です。小説も少し読んでみようかな。


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2016年5月30日 (月)

感想文:「作家の収支」

ミステリー作家、森博嗣の印税生活の本。これまたKindle版で読みました。

いわゆる「夢の印税生活」の内訳が赤裸々?に書かれたとても興味深い本です。
職業作家がどうやってお金を得ているのか、その内訳が事細かに書かれています。
よく、今は本が売れない時代で、小説一本で食っていくなんてとても無理!という話はよく耳にします。が、この本によれば、作家は「意外に効率よくお金がもうかる」商売だということになります。
しかも、通常の庶民的な労働と収益の感覚からすれば、まさに「夢の」といえる、高収入っぷりです。

その秘密は、どうやら、ある一定のクオリティを持った本を、「たくさん出す」ことにあるらしい。
デビューの時に、すでに数冊分の「小説の蓄え」があり、それが次々に出版される、それぞれがある程度の評判を取ると、相乗効果で売れていく、すると、重版がかかったり、単行本が文庫化されたりしてまた印税が入る、そういうサイクルを、休むことなくどんどん続ける…ということで「夢の印税」で生活がまわっていくようです。

ポイントは、自らが著作権を持つ「コンテンツ資産」をとにかく積み上げていく、というところにあるようです。「こつこつ」と積み上げていくことでどれかが売れ、どれかが再発され、どれかがドラマ化、どれかが映画化され、電子化され、そのたびに収益があがっていく。
その実態は、コンテンツ資産の「運用」に近い、という印象。
単行本を一冊出すと、その本が重版を重ねつつ、何年か後に文庫として発売され、それもまた重版しつつ印税を生み出してくれる、一粒で何度もおいしいのが、小説というコンテンツの儲かるしくみのようです。

現在、著者は、作家引退宣言(?)をして、一日に執筆時間1時間、それでも生活には困らないのは、過去のコンテンツ資産が着々と印税を稼いでくれているからです。このあたりも「資産の運用」に近いですね。

「重要なのはコンスタントに書き続けることで、それには、たいして才能は必要ない」と著者は書いています。でもさすがに才能は必要だと思うし、これは「持てるもの」の余裕の発言だと思いますが、小説の執筆を「商品の生産」として捉える見方は、ちょっと刺激的です。
また、これらコンテンツ資産の運用は、「小説」という、時間がたっても古くならないものだからこそ、可能である、というところも気づかされます。
それと、結構癖のある理数系推理作家という、独特の作家の位置、本の位置づけも成功に関連しているかもしれません。読書人全員が読まなくても、熱心なファンのコミュニティの存在が、安定的な収益をささえているのです。このあたり、先の都築響一の戦略にも通じるところがありますね。

私自身も、これまで、何冊か本を書いていますが、正直、あまり収益が上がっているとは言いがたい。本を書くという手間と、手に入る印税の額を比較すると、うーむ、という感じはします。ただ、印税率が、森博嗣とそう違うわけでもない(ちょっと低めですが)。収益の低さは、ひとえに、印刷部数が少ないからです。私の書く本は実用書だったり、ニッチな内容だったりして、多くて数千部がせいぜい。印税は、まずは印刷した本の部数に応じて支払われるので、収益をあげるには、それなりの部数がすられる必要があるのです(出版社との契約にはバリエーションがありますが、一般論として)。そして、収益の「本番」は、ほぼ不労所得といっていい、増刷によるものですが、それもなかなかままならないのが実情です。特に実用書の場合は情報がすぐ古くなってしまって、息長く売ることが難しいのです。
となると、なるべく多くの人が買ってくれて、息長く売れる本で勝負することになります。やはりエンターテインメント小説が最も印税をかせいでくれるカテゴリーということになるでしょう。でもその分野である程度売れるものを書くのは至難のわざ、ということは、夢の印税生活は、やっぱり、凡人にとっては夢のまた夢なのでしょう…。

それでもこの本を読む価値があるのは、いわゆる「コンテンツ・ビジネス」の要諦を、作家と小説という最小単位を使ってことこまかに解説しているという点です。
ふむふむ、ふむふむ、ふむふむふむ…とあっというまに読み進み、かなり、勉強になりました。

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2016年5月26日 (木)

感想文:「圏外編集者」

これも話題の本。Kindle版で読みました。

「圏外編集者」」都築 響一 著

今、なにがしかのものづくりを生業にしている人にとっては、読んでおいたほうが良い重要な本という気がしました。

都築響一 氏の存在を知ったのは、はるか昔、テレビ番組のディレクターをしていた時でした。
フジテレビのワーズワースの冒険という番組で、「部屋」というテーマで番組を作っていたのです。その時の取材資料としてTOKYOStyleを購入し、まんまとその中の何軒かのお部屋を取材もさせてもらいました。
その時は、この分厚い写真集が、都筑氏のたったひとりの手で取材され、撮影され、編まれたのだということは知るよしもありませんでした。当時、パートパートの専門家がよってたかって作る民放キー局大規模制作体制にがっちり組み込まれた身としては想像もできませんでした。しかも、氏は、この本のために「はじめて」カメラを買い((しかも4×5!)」、撮影を自力で始めたという…「だってそうでしかできねえじゃん、これ」という思いとともに。
今回、この本で、TOKYOStyleの作られ方を知り、まさに「ほえー」という気持ちです。

この本、おそらく、僕と同じように、80年代~90年代初頭ぐらいから、がりがりものづくりをやっていた世代には、それが出版か、映像か、それともイラストか、音楽か、にかかわらず、面白く読めると思います。共感と若干の反発、そして、なにか、色々なものをつきつけられてしまいます。自分の姿勢に対する自省促す巨大な?マーク。
語りおろしであるところも、理屈っぽくならず読みやすい。

確かに都筑氏は、編集者として、ものづくりをする人として、業界的には特殊なのかもしれませんが、この本で語られている、その「作る動機」と行動はほんとうに、ごくまっとうです。このまっとうさが「異端」に見えてしまうほど、現在のものづくり業界はおかしなことになっているのかもしれない。
そうやって、まっとうにものを作ってきた都筑氏の現在の活躍の場は、個人の有料メルマガです。60才にならんとする大ベテラン編集者が出版業界から離れて、インディーズやってるというのが、現在の、いわゆる「業界」の不健康さを示しているのではないか。それは出版だけではなく、映像や音楽、アートだって。

都筑響一メールマガジン
http://roadsiders.com/

本の中では、このメルマガに関連して、現在のデジタル化されたものづくりやコミュニケーションについても触れています。その認識はいちいちその通り!と頷ける指摘ばかり、しかも実践がともなっているので説得力があります。
この本(話)の良いところは、結局、ものづくりを生業にするって、作る能力やセンスだけじゃなく、生活感覚やら、お金やら、健康状態やら、それこそ生きていることがそのまま全部反映されているもの、という前提で書かれているところ。
精神論や根性論とお金や生活の話が切り離されない、健全な状態で語られていると思いました。

思えば、私もそれこそ「圏外」的な欲望が人一倍強いはずだったし、そのせいでこんな仕事をしているわけですが、この本を読んで、その欲望の強度がこのところ弱まってしまい、いつのまにかやや普通のことしばかり考えるようになってしまっていたかもな、と反省させられました。

……これは超重大な問題だ。修行しなおす!

都築響一氏の著書は、過去、こちらでも感想文書いています。
「独居老人スタイル」


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2016年5月20日 (金)

感想文:「断片的なものの社会学」

「断片的なものの社会学」(岸政彦)という本を読みました。Kindle版です。
前々から評判を聞いて気になっていたのです。
社会的なマイノリティをインタビューしながら研究を進める社会学者が、その体験の中で得た「なんだかもやっとする瞬間」を書き連ねた本です。
社会学の本というより、不思議な感覚で読めるおもしろいエッセイだと思います。

冒頭近くに出てくるのは、こんなエピソード。

沖縄である人にインタビューしていると、その途中で、庭の方から「お父さん、犬が死んでるよ」という声がして、その取材対象のお父さんは、一瞬ことばを切ったが、また何事もなかったかのように続きを話し始めた。

というもの。
このエピソードで、なんか、ぐっと引き込まれました。良質な怪談をこっそり聞かされたようなショックです。
居間でその家のお父さんにインタビューしている、その時、庭の犬小屋で(かどうかわかりませんが)その家の犬が死んでいる、それを息子が見ている。でも、父はそれを十分わかりながら、何事もなかったように話の続きをはじめる。
なんだか、きまずいような、どう反応していいかわからなくなる瞬間です。
だからどうだとこうこともない、そういう体験を別に解釈するでもなく、ただ味わって、なんだか戸惑っている。
この本は、こんな感じのなんだか胸のざわつく、結論の出ない、宙吊りの体験がたくさんでてきます。
そこには、なにか、はかなさと同時に、切なさがあって、ちょっと胸がきゅんとする。

著者は、この世界はこのような断片の集まりで出来ているといいます。

本書の中で、著者が書いている自分のエピソードがあります。
子供のころ、そこらへんの小石をひろっては、そこにたまたまあった、しかも世界中に大量にある、何者でもない小石が、ひろったとたんに「この石」に変化してしまう「とほうもなさ」にうっとりしていたというのです。
この感覚は、よくわかるような気がします。
偶然何かにかかわり持ってしまった一期一会の話ではなく、拾わなかった膨大な数の「ほかの石」のとほうもない規模に呆然とする感覚だと思います。自分の外側にある世界の漠然とした、そして、とほうもない広さに呆然とする…たった一個の石を拾うだけなのに、なんだか宇宙空間に放り出されたような気分になる。

不思議、味わい深い本でした。
なんか、似たような感覚を味わったことがある、しかも大好きな作家で…と思ったら、内田百閒の「冥土」でした。質感がちょっと似ています。

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2009年11月13日 (金)

わからないという方法/橋本治 著

このところ、日常生活でのちょっとしたミスが多い。
考え事をしながら昼食用のおにぎりを買い求め、いざお昼に食べようと思ったら紛失していた「消えたおにぎり3種事件」、電車を降りて改札を出る前にチャージしようとして間違えて「精算」ボタンを押してしまい、チャージしたつもりで「おつり」で取り忘れて、そのまま何者かに持ち去られてしまった「幻のチャージ・おつりは何処に?事件」、そのほか書類を取り違えたり、Web上のボタンを押し間違えるなど、ちょっとしたミスが相次いでいる。当家でもカミさんが炊飯器のボタンを押したつもりで押し忘れ、めしが炊けていなかった「炊飯水泡に帰す事件」など、類似の事件が頻発している故、もののけの類の仕業に違いないと思っていたのだが、脳の経年劣化に伴う、いわゆる「もうろく現象」であるという仮定がにわかに現実味を帯びてきている今日この頃である。

というわけで、なんだか冴えない日常を送っております。
で、自宅の仕事机の周りには、資料や本がさながら搭のように床からつみあがっているんですが、それを何気なく眺めていたら、書店のカバーがついたままの新書版の書籍がふと目にとまりました。
開いてみると、橋本治著「わからないという方法」という本でした。だいぶ前に買って、読んで、面白かった記憶だけはあるのに、何が書いてあったのかどうも判然としません...これも「もうろく現象」の一局面ですが、一度読んだ本を何度でも楽しめるので、考えようによってはオトクです(笑)。読む前から「面白い」とわかっている本を何度でも....。さっそく読んでみました。
やはり面白かったです。というより今読んだほうが時代にぴったりあっているような気がします。

なるほどと思ったのは、「20世紀は[わかる]の時代、21世紀は[わからない]の時代」と断じているところです。
前世紀後期においては、世界は理解することができるハズ、正解はどこかにあるに決まっている、という感覚が支配的で誰もが理論やマニュアルを求めていた。
しかし、どうもそうじゃないらしいという事が明らかになったのが21世紀だというのです。
これは感覚的に、というか実感として分かる気がします。
確かに僕も20世紀の終わり、かつては「正しいことは誰かが知っている」「正しい理論がどこかにある」と思っていました。
色々本も読んだりして、「よーしどんどん分かってきたぞー」という感覚が多分90年代半ばぐらいまではまだあったし、「あーこれがトレンドだ、こっちが最先端だ、これについて行けばいいんだな」という感覚も確かにありました。
でもその頃を過ぎると、なんか目の前にぶら下がっていたはずのニンジンがいつのまにか消えてしまったような感覚にとらわれることが多くなったんです。
今までは「年のせい?」と思っていたのですが、これが時代の変遷のせいだったとしても不思議はありません。聞く音楽のジャンルが良く言えばボーダーレス、悪く言えばとりとめなくなってきたのもこの頃です。

橋本治氏は、この本の中で
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「便利な正解の時代」が終わってしまったら、「わからない」という前提に立って自分なりの方法を模索するしかない
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と書いています。

で、この「わからないという前提に立って自分なりの方法を模索するしかない」の「模索」には「身体を動かしてあれこれ試みる」がセットになっているといいます。このあたりが「なるほど」ポイントですね。
まずは時間をかけて身体でわかる、脳はあとからついてくる。それが「理解」である、という。
考えてみれば、身体が納得することが「理解」である、というのはそんなに特殊な事ではなく、昔ながらの「職人的」世界では普通に言われ、行われてきたことです。
ひょっとして、今(21世紀初頭)が、「分からない」を前提とする特殊な時代になってしまったのではなく、もともと世の中はそういうもので、前世紀の終わりが、たまたまおかしな感覚に支配された時代だったのかもしれません。今、その夢から醒めたのかな、とも思います。

橋本治といえば「桃尻娘」シリーズですね。出版年代を見ると最初の本が78年ごろ、僕が高校姓の頃です。なのでリアルタイムに読もうと思えば読めたハズなんですが、なぜか出会いがなく、読んだのは20代も半ばを過ぎた頃でした。そのとき思ったのは「あー、しまった!これを高校生の頃に読みたかったな~」です。サリンジャーやランボーの代わりに、こっちにしとけば良かった。ちょっとは違った大人になれたかもな、と思ったものです。読み返してみようかな、桃尻娘。

橋本治独特の「しつこい」文章がキライじゃない方にはオススメです。

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