SIDE B 映像を作る

2013年3月17日 (日)

持続させてある瞬間ぱっと切り替えるということ

先週は、仕事で土日を潰してしまったのでお休みしました。
またまた、なんか考えはじめるとなかなかしつこい、編集についての考察です。

かつて、音楽と絵に興味がある若造だった僕が、いろいろあって映画の学校に入り、「映像とは何か」という講義で最初に教わったのは「映像とはなんらかの装置 (機材あるいは仕掛け)によって人工的に写し取られたもの」だ、というなにを持って映像というか、の定義でした。
映像は機材(テクノロジー)を無視しては成り立たない。なるほど、と。
いくら念力 がつよくても映像は写りません。万が一、念写によって定着された映像があったとしても、この場合、念写を行なっている「脳(かなんか)」がその装置といえるわけで、ある種の「自動的なプロセス」を経ているという意味では「なんらかの装置によって人工的に写し取られたもの」ではあるわけです。
僕はこういう身も蓋もない「定義」が大好きです。

その次に教わったのは「映画とはある映像がしばらく見えたのち、それが夢のように消えて、突然別の映像が現れる表現だ」という映像編集の定義です。
たしかに、映像作品は、あるものが一定の時間見えていて、それがぱっときえて別のものが見えます。これは映像以外の表現ではありえない事態であります。
僕にとっては、この定義は何よりも重要かつ、本質的なものです。

これらは、その当時教わったそのままの形で、30年近く経った今でも脳の中に刻まれていて、僕の飯の種になっています。
僕は「なにかの装置のようなものを使って画像を写しとり」それを「ある一定の時間持続させたり」「ぱっと切り変えたり」することでお金を得て生活しているのです。
そう考えると、黒澤明だって、何かの装置で画像を写しとって、ある一定の時間持続させたり、ぱっと切り替えたりしていました。それはフェリー二でも、キューブリックでも、ラスメヤイヤーでも、みんなそうです。

●ぱっと切り替えていくと文章のようになる
リュミエールの時代には、映像の1カットは、一枚の写真のように独立した存在でした。
それが、編集されるようになってどう変わったのかな、と。

ある一定の時間持続してぱっと別のものに切り替わる、という事は、切り替わった後にもある一定の時間持続して、また別のものにぱっと入れ替わるわけです。
そうして一連の映像の流れができていく。
そうなると、映像が、「文章」のようなものになっていくと思います。
文章というのは、一つひとつ単語を並べていくことによってある「意味」を表現します。

「この少年は、城南小学校の生徒です」

これはある少年がいて、城南小学校という学校に通っていることを意味しています。
接続詞など色々省いてしまっても、ほぼ同じ意味が伝わります。

「少年 城南小学校 生徒」

これを映像のみで表現する場合、色々な方法がありますが、一番シンプルなのはたとえば下記のようなことでしょう。

1)ランドセルを背負った少年が小学校に入っていく(ないしは出てくる)カット
2)その学校の看板「城南小学校」という文字が読めるカット

1)のカットで、少年がいて、かれがどうやらこの学校の生徒であろう事がわかります。しかし、このカットをいくら見ていても、そこが城南小学校であることはわかりません。
そこで、補足情報として2)のカットを付け足してみたわけです。
このワンセットで、先ほどの文章、もしくは、3つの単語の羅列とほぼ同じ意味が伝わります。

このように、編集という行為によって、それぞれ独立したものであった映像と映像とをつないでいくことで、文章のようなものになっていくことは間違いないと思います。
この性質があるからこそ、編集しない、アンディ・ウォーホールの映画などもアンチとしての輝きが保てるのでしょう。
(しかし、僕も一時期夢中になった相米慎二やアンゲロプロスの1シーン1カットの長回しは、1カットの中での意味の変遷という演出なので、ぱっと切り替えないだけで、これはこれで編集の一種だと思いますけれど)

実際には「意味を伝えるために編集して文章のようにする」という側面と「ぱっと切り替わった瞬間に文章のような効果が立ち上がって意味が生成されてしまう」という二面性を持っていると思うのですが、このあたりは、考えるととてもややこしく、またあらためて書きたいと思います。

■字コンテの正当性
映像を作るときに、その設計図として「コンテ」を作る場合があります。コンテには一般的に2種類あり、絵で綴ったものを「絵コンテ」、文字で綴ったものを「字コンテ」といいます。
一般的には絵で綴った「絵コンテ」のほうがわかりやすいとされていますが、実作業上は、字コンテの方がわかりやすく作業しやすい場合も多々あります。これは、編集を前提とすると、映像は、絵より文章に似てくるからなのではないかと思います。

映像のディレクターとして必須の技術は何か、と考えると、「映像と文章の相互変換をする技術」かなあ、とも思いますね。
昔から「ホン(脚本)が読めないやつはダメ」と言われますが、この意味は、文章と映像の相互変換の能力の事を言っているのかもしれません。

コレは、映像の編集を学ぶにあたっては絶対にさけて通れない、エイゼンシュテインの「戦艦ポチョムキン」の一節です。映像を編集することによって、それが文章のようになると同時に、文章にはないあるダイナミズムというか、内蔵が自動的に動いて生命を営んでいるような、んー、なんというかエモーション(byサムペキンパー)といったようなものが発散しているのがわかります。

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2013年3月 3日 (日)

リュミエールと仲間たち

仕事がら、毎日映像について考えていますが、このところ、なんというか、「もともとどうだったんだっけ?」「根本はどういうことだっけ?」というのが気になってきまして...で、関連する書籍やDVDを見たりよんだり読み返したりしています。そんな流れでみたDVD。
「リュミエールと仲間たち」

これは、リュミエール兄弟が作った手回しムービーカメラ兼映写機=シネマトグラフを復刻して、それを使って40人の映画監督が1カット映画(シネマトグラフ の1ロール分52秒)を作るという企画ものDVDで、映画誕生100年を記念してフランスで作られたもののようです。参加映画監督には、ヴェンダースやス パイクリー、日本からは巨匠吉田喜重。

こ の映画は色々な見方ができると思いますが、もっとも興味深いのは、シネマトグラフが実際に使われている現場が見られるということ、そして、この100年前 (今現在からするともっと前ですね)の技術によって撮影された「現代」が見られるということ、それぞれの映画監督が、100年前のテクノロジーとどう向き合うのかを見られることです。

出演者や監督リスト。
http://www.jtnews.jp/cgi-bin/review.cgi?TITLE_NO=11875

作品を紹介しているブログ。

http://www17.ocn.ne.jp/~linden/omuni6.html

Youtubeに何本かあがってました。

それにしても、シネマトグラフは実に「箱」です。
箱と、フィルムと、フィルムを巻き取るクランク(動力)、シャッター、そしてレンズ、これで映画ができる、というか、出来ている。
まあ、実際には、色々考えるとシネマトグラフの映画をそのままみているわけではもちろんないんですが、それを想像する事はできるし、今となっては驚く ほど単純な「仕掛け」が映像という表現のエンジンなんだな、という事に深く感じ入ります。これでもちゃんと動いているし、映画に見える!

リュミエール兄弟は、シネマトグラフの開発者=エンジニアであると同時に、映画を発案する=プロデューサー兼監督であって、興行家=映画館経営者でもあ り...。
今、日本で映像の仕事をしていると「本来映像は分業化すべきもの」という常識がありますが、実は本来、映像ってリュミエール的な混沌とした状況・・・装置そのものを作ったり、カメラマンをやったり、興行したり、で作られていたわけですね。
なので、今でも、出来る事をなんでもやって映像を「粘土細工のように組み立てていく」のも「アリ」なんですよ、そう思います。しかもデジタル化によって、そうできる状況がどんどん整備されています。

考えてみれば、動画を撮影できて見せることもできるスマートフォンは、シネマトグラフみたいな機械なんだな、と。さしずめYouYbeは、リュミエールの劇場ですね。

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2013年2月17日 (日)

続・文字と映像

先週の続きみたいなあれです。

下位置テロップについて地味に考えてみようと思います。
下位置テロップは、まあ、説明するまでもないですが、モノの名称や地名、人名、ちょっとしたコメントなどを画面の下位置に小さめに入れるテロップです。
普通白い文字を使い、黒エッジやドロップシャドウで読みやすくします。
このありふれたテロップも、映像ディレクションの技法、と肩肘張って考えると様々な要素があり、深いもののひとつです。
メインをはるタイトルだとデザインとタイミング勝負になるし、それこそケースバイケースになるので、「読みやすく」「かっこよく」ぐらいで特筆すべきことはあまりないんですが(場合によっては読めなくても良い、というケースもあるでしょう)、下位置テロップは汎用的なものである上、多機能なので色々と考慮しなければならない事が多いのです。先週考えたような「文字は映像に優先して視聴者に届く(届いてしまう)」という事を前提にするとその機能の本性がわかってくるような気がします。
ではまず、外観から考えてみましょう。

●下位置テロップの外観
まずは大きさですが、下位置テロップといういうぐらいで、画面の「補足的」意味合いであることが認識できるサイズという事になると思います。
よくバラエティや情報系の番組で使う「下位置だがむやみに大きいテロップ」は、画面の補足というより、画面に優先して「読め!」という意味合いのテロップなので、ここでいう下位置テロップとは役割が違います。
「補足的」というのは、あくまでメインは映像であって、それを邪魔しないサイズ、という意味です。その範疇におさまり、かつ、作品のトーン&マナーに沿っているという大きさや色を心がけます。

例えば、避暑地のカフェを軽いジャズに乗せて紹介するおしゃれな番組で、下位置テロップがバカでかいサイズの白文字黒エッジ角ゴシックというのはあまり考えられません。かっこわるいです。
逆に、お年寄ターゲットの演歌番組で歌詞を表示する下位置テロップが、おしゃれなフォントの控えめなサイズものでは、読みにくい。しかもノリが悪すぎ。

いずれにしても、下位置テロップは「補足説明をする」という機能をもっているわけなので、「読みやすい」というのはマストだと思います。文字列がキチンと機能を果たすには、視聴者が「最小限の努力で読める」必要があります。

「補足にすぎないけれどちゃんと読んでください」という心持ちで入れるのが「下位置テロップ」です。

では、下位置テロップに担わせる機能別をケーススタディ的に少し考えていくことにしましょう。

●名称を入れる
写っているものの名称や、地名を入れる事があります。この場合は、「違和感が出たりや突出したイメージにならないように、そしてもちろん読みやすく」ということで、ほどよいタイミングでほどよい時間入れればいい、という程度。
たいていこういう場合は、この種のテロップの背景にふさわしい引き画を流れの最初の方にに使うことが多いのでそこに、すっと入れる。あまりカットアタマぎりぎりだと忙しい感じがしてしまう場合があります。ナーションがある場合は、ナレーションでその名称を言う場合も多いので、それとのタイミングを図った方が気持ち良い場合もあります。
機能としては、そのシーンに「見出しをつける」という意味合いがあります。

●コメントのフォローをする
映像の中で誰かが語っている場合、そのしゃべった内容をフォローするテロップを入れる事がままあります。
この場合は、目的によってタイミングが重要になってきます。

その1)コメントの見出しを入れる場合
「今期の収益につきましては、前年比**パーセントの増収を確保できまして、云々...」
といったコメントに
「今期の収益について」
などと入れる場合。これはコメントのアタマか、少し前に出して、コメントいっぱい引っ張っておくか、ある程度の尺入れたて読ませたら、適宜ひっこめます。
視聴者はコメント聞きながら、その主要テーマについて下位置テロップを読むことで確認できるわけです。

その2)コメントの要約を入れる場合
上記のコメントに対して
「今期の収益は前年比**パーセント増」
などと入れる場合です。
視聴者は、コメントを聞きながら、それを若干ですが先回りして概要を知る、ということになります。
この場合、若干タイミングに考慮すべき点が出てきます。
意味的には、該当するコメントの最初に出して、コメント一杯ひっぱっておく、が基本になります。
ただし、人間の習性として文字が表示されるとまっさきにそこに目がいってしまいます。ですので、しゃべっている人の表情を見せたい場合には、見せたい表情を避けていれる必要があります。しゃべりアタマの笑顔が重要ならば、笑顔を十分見せておもむろに入れる、など駆け引きが必要になります。

その3)コメントの内容に念を押したい場合
これは上記その2)とほぼ似たようなものですが、コメントが終わってから後追い要約を入れるような場合です。
例えば、「今期の収益につきましては、前年比**パーセントの増収を確保できまして」と来た後「これも、社員の皆さんの努力のたまものでして、云々...」とコメントが続く場合、後ろのコメントに、前のパラグラフの要約を入れることで、視聴者が文脈を見失うのを防ぐ、など。
この場合は前半のコメントとテロップとの距離が問題になります。あまり時間が開くと間がぬけてしまうので、前半のコメントの終わりぎりぎりで何気なく出す、みたいな感じでしょうか(この辺のさじ加減は好みによりますが)

いくつか例を考えてみましたが、共通して考慮すべきは、しつこいようですが、テロップは「情報として強い」という事です。
普通の場合、映像よりテロップの方が強い。補足的な意味合いだといっても、文字=言葉による情報は何にもまして影響力があり、映像を補足しながら「規定」する力を持っています。
そのため、テロップが出た時点で、視聴者の注目を奪ってしまう。そこを考えて使う必要があります。

●ナレーションとの関係
ナレーションとテロップで同じ言葉を使う場合、ナレーションのタイミングに下位置テロップを合わせたほうが気持ちい場合があります。
「太郎君は9才です」というナレーションに「太郎君(9才)」というテロップを当てる、など。
これが、他のテロップとの兼ね合いでタイミングがずれて「妹の花子ちゃんは7才です」というところに「太郎君(9才)」が出てしまうと、視聴者の脳は軽い混乱をきたします。
これが、ナレーション「太郎くんは9才です」に、テロップ「家族が暮らすのは愛知県犬山市」などだと、あまり混乱はおきません。
同じ名詞でも、人名と地名は別のカテゴリーに属するため、脳がきちんと対応できるのでしょうか。

ナレーションがある場合、そのナレーションは映像との関連の中で読まれます。
そこに文字情報がからむ場合には、さらに、その上に別の「テロップレイヤー」を構築するわけなので、映像との関連プラス、ナレーションの言葉との関連が加わってきます。
映像作品は情報を組紐のように編んだものです。その主要要素が、映像、音声としての言語(ナレーション)、そして文字としての言語(テロップ)です。で、通常はそこに音楽というまた別の要素が加わって、実になんというか、複雑な様相を呈するわけです。

●下位置テロップと映像がサシで勝負する場合
これら以上にタイミングが重要なのが、アクションにからむ場合です。その中でもナレーションがなく、テロップのみで映像の解説するような場合は、同じ「視覚情報」という土俵で映像と文字情報(テロップ)がサシで勝負してしまいます。
例えば、下記のような例を考えてみましょう。

映像1:サバンナでチーターがガゼルを追いかけ、追いつき、ガゼルに飛びかかって倒す(ロング)。
映像2:ガゼルを食べているチーター(アップ)。

この2カット構成されているシークエンスに、下記の解説テロップをいれます。ナレーションはなし。

テロップ:チーターは時速**キロで走り草食動物を襲います

この場合、3つの可能性があります。

その1)ぴったり合わせる
ガゼルを追いかけ走っているチーターの映像に「チーターは時速**キロで走り」と入れ、襲いかかった瞬間に「草食動物を襲います」と入れる。
この場合、視聴者は、文字に目が行ってしまいますので、走っているチーターの体の形状や、襲いかかり方、みたいな決定的瞬間を見そこねてしまう可能性があります。ただ、確実に文字を読み、その知らせたい情報を受取るでしょう。

その2)映像で起こっている事を見せてあとから解説する
チーターがガゼルを襲うところまでを説明なしに見せて、あと付けでテロップを読ませます。
視聴者は映像の本来の意味をしらないまま事実を見続け、その記憶の中でテロップを読むことで解説を受け入れます。
へえ、と面白く映像を見たあと、それについての解説を受け取ることになります。

その3)まず解説してしまい、その後を追って映像で実証する
チーターがガゼルを追いかける場面でテロップ入れ、襲う前にひっこめます。
視聴者は、チーターの捕食修正を手っ取り早く知った上で、襲うシーン、食べるシーンを見ることになります。
意外性をあらかじめ塞ぐことで、解説内容に沿った路線で映像を見させることができます。

これ以外にも、どこかでストップモーション入れて解説読ませるなど、いくつかバリエーションは考えられまが、その中のどれを採用するかによって、シーンの見え方、理解のされ方が変わってきます。

こうして考えて来ると、下位置テロップの問題は、情報をどう組み合わせ、どう構築するか、つまり「編集」そのものを考えていることに気づきます。
時間軸上で情報を組み合わせる事が映像を作るということだし、それはそのまま「編集」するということです。そんなこんなが端的に現れるのが「下位置テロップ」かもしれません。

どれもこれも、まあ、ちっぽけで地味な話なんですが、映像のディレクションという仕事の90%はこういう地味な判断の繰り返しです。

下位置テロップも使いこなせないようではプロのディレクターとしては失格ですが、下位置テロップですら使いこなすのはなかなか難しいもなんだよな~、と思います。

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2013年2月11日 (月)

文字と映像

そういえば、しばらく、映像制作やディレクションについてエントリを書いていないなあ、と思い、
前に書いて投稿しそこねたやつに加筆してみました(ひょっとして前にも同じな内容を投稿している可能性あり...)

で、文字と映像です。
というか、映像の中のテロップ(これも変だ)というか。
映像と文字が組み合わさった時に、何がどうなっているんだろう、考えると色々難しいし、結構複雑です、この問題。
ディレクターなら、誰でもなにげなく使う「下位置テロップ」ひとつとっても、考え始めると色々ありすぎる...。

■映像と文字情報は住む世界が違う
考え始めると色々ありすぎる...状態になる理由の根本は、そもそも、テロップ=文字情報=言葉、と、映像とは、立脚する次元が別ものだというところに由来するんだ思うのですが、ここでは、情報の「強さ」という面を考えてみたいと思います。

言葉と映像を比較すると、言葉よりも映像のほうが直接的でリアル、言葉は一度脳で解釈されるので正確だが間接的で解釈に手間がかかる、というのは、まあ、確かにあるのかなあ、と。
で、だからこそ、現代の人間は「言葉」に最大限の注意をはらっているのではないか。
なので多分、映像と文字列(言葉)を同時に見せた時には、まず目が行くのが文字列のほうではないでしょうか。
「テロップ=言葉」は情報として強い、というか、受け取る人のアタマを真っ先に持っていく力があります。優先順位が高いと思うのです。
かたや、映像は多面的でどちらかというと、曖昧な情報です(モノにもよりますが)。
なので、映像と言葉が組み合わさった場合、その瞬間の力関係でいうと言葉のほうが強い。

映像にもいろんな映像があり、言葉にもいろんな言葉があるので、それぞれをとって語り始めるとりとめがなくなるわけですが、それを見た瞬間にどちらが先に視聴者の意識に届くかという事でいうと言葉のほうが圧倒的に強く、結果速い、のでは、と思います。

■言葉は意味に導く力を持っている
となると、映像と文字情報を組み合わせる場合には「文字情報=テロップ=言葉」の強さ、速さを考慮に入れる必要があります。

映像というのは、写真でもそうですが、そのまま1カットぽつんとあるだけではいろんな意味を持ちうるし、実際多面的なものだと思います。あるワンカットをある時間再生して「さあ、何かを感じなさい」と言われたらみんなかなり勝手な(多様な)事を感じるでしょう。
うさぎが一頭写っている1カットを見た場合「うさぎが写っている」以外に「かわいい」「毛並みが良い」地域によっては「太っていてうまそう」と思うかもしれません。

かたや、言葉は意味を伝えるためにあり、多面的なものをひとつの意味に収斂させる働きがあると思われます。「かわいそうなうさぎ」という文字には、耳の長い例の哺乳類が、なにか悲惨な目にあっている、という以外に取りようがありません(何かの符丁というのはあるかもしれませんが)。

この二つを組み合わせた時、どうなるかというと、多面的な映像に、言葉による名札がつくんだと思います。
それ自体では多面的な映像に、テロップは意味を与える力を持っています。
実際には、小学校で飼育されているごく普通の状況にいるうさぎなのに、「かいわいそうなうさぎ」というテロップを入れる事で、悲惨な目にあっているかわいそうなうさぎであることにされてしまう、そういう意味を与えられてしまう。
いろんなものに見える石ころに「うさぎ」と名札をつければ、うさぎの形に見えてくるような、そんな事が起こるわけです。

言葉=テロップは、映像を引っ張るし、それ以上に、言葉は人を「引っ張る」力を持っている。
そして、映像をみている人の視線は、テロップが出たとたんに、テロップに引き寄せられる。つまりテロップは視聴者の意識に「優先的に」割り込みができる力があります。

この二つの特性、
●テロップは映像に意味を与える
●テロップは、見る人の目線をまっさきに惹きつける
を意識して使うことで、単なる下位置テロップに「考慮すべき色々」が生じてきます。

■視覚と聴覚の交点
以前、養老孟司先生の「まともバカ」という書籍を読んだんですが、その中に視聴覚と言語についておもしろい記述がありました。
視覚の情報と、聴覚の情報とは、別々の経路をたどって脳に入ってくる(つまり眼と耳から)、その交点にあるのが「言語」だ、というのです。
逆に言うと、視覚にも聴覚にも共通した意味を与えるのが言語だという事のようです。
そして、その言語は「意識」とほぼイコールであるといいます。

テロップは、脳科学的に見ても、映像に意味付けをして意識させる効果があるというわけです。
テロップがない状態だと、視聴者はその映像の意味をその都度考えているわけですが、その手間を省き(というか先回りして)意味を与える、というのがテロップの役割と言えそうです。

■テロップの量
最近のテレビ番組はテロップだらけで、番組を見ているというよりも番組を読んでいるに近いのですが、これも、視覚・聴覚情報を視聴者が解釈する手間を省いて てっとりばやく言語に置き換えてあげているわけで、情報伝達の効率を高めている、ということだと思います(一面ですが)。
なので、テロップは、視聴者の考えたり想像したりする余地を塞ぐ役割もになってしまう、という側面があります。
僕は、よく言われるように、最近の日本のテレビはテロップ入れすぎだろう、とは一概には思いません。ディレクターが必要だと思ったら、100でも200でも入れれば良いと思います。要は目的、という事でしょう。映像をじっくり感じて欲しい時に、やたらとテロップで補足(意味を規定)してしまうのは言うまでもなく、間違った演出です。

という事で、この続きは、もう少しビミョーなタイミングを必要とする場合、を考えてみたいと思うのですが、それはまた来週というかなんというか。

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2010年11月 9日 (火)

はしょらずに見せる(実感値)

僕が代表をつとめているイメージメカニックLLPでは、「一目瞭然DVDシリーズ」というハウトウDVDのパッケージ商品を展開しています(というほどラインナップがまだあるわけではないんですが)。そのコンセプトは「はしょらずに見せる」です。

一般に、商業的な映像作品は「はしょってなんぼ」「捨ててなんぼ」という作り方をします。ある作業を、まるまる10時間撮影したところで、映像作品になりうる常識的な時間はわずかなものです。商品にするためには「はしょらないと」話にならないわけです。プロの編集テクニックは、ほぼ、「どうカッコ良くはしょるか」にかかっています。「刈りこんでなんぼ」です。

例えばテーマが「ある作業」だったとして、それ刈りこむときに重要なのが「何をどうすると、どうなるか」「こうするためには、何をどうするか」みたいな視点です。
この「何をどうするとどうなるか」をピックアップして構成し、その上でディティールに踏み込んだり、ニュアンスを伝えたり、もしくは「味」みたいなものを醸しだしたり、演出的に付け加えるギミックなどをやる。で、こうして伝わる情報は「これを、こういう順番で、こうすると、こうなる」といった、いってみれば「段取り」です。段取りをいかに面白く、いい感じで見せるか、という事になります。

そういう風にして出来上がった映像は、「その作業がどんなものか手っ取り早く知りたい」という人にとっては、コンパクトにまとまってテンポもよく、わかりやすいので、良く出来た作品になります。
しかし、実際にその同じ作業をやってみよう、と言う人にとっては、これでは情報は不足なんですね。というのは、この「捨ててしまっている部分」が、ともすれば「実感」だからです。「実感」というのは身体感覚と結びついていて、そこが抜けてしまうと体は動かないし、解らない。多分、それなくしては映像でハウトウをやる意味はあまりないのではないか、と、そう思っています。
そこに、広告業界や放送業界の論理で作られた「紹介映像」と、ユーザーの作業にガチで役立つ「ハウトウ映像」の違いがあります。
だから、一目瞭然DVDの「はしょらずみ見せる」というコンセプトが生きてくると思っています。実際にその場で見てみるのが一番なんですが、それにかわり得るもの、その次にいいものを映像で提供しようというのが狙いです。

もちろんまったくはしょらずに見せる事は不可能なんですが、なるべく、いつもははしょってしまいがちな「なんでもない作業風景」を丁寧に見せることで、加減、塩梅、機微、みたいな、ニュアンスを伝えたい。ある結果に辿りつくまでの「プロセス」をじっくり見せたい。

例えば「筆を軽くあてます」といった場合、「どの程度軽く」かは、「どんなスピードで」「どんな筆の持ち方で」「その時どんな音がするか」「緊張してやるのかリラックスしてやるのか」などの複合的なものです。それは、その筆遣いを数カット、ポンポンと見て理解できるものではありません。一連の作業をじっくり観察してはじめて得られる情報だと思います。こういったものは、ある程度の尺を見せて、視聴者の脳を「その世界」に入り込ませる必要があると思います。映像による「実感」というのは、こういう没入感の中から視聴者が自分で作り出す情報のことではないしょうか。

一般に、ディレクターに要求されているのは、捨てるセンスとテクニックなんですが、この場合は、いかに「うまく捨てない」か、が要求されます。

視聴者の頭の中に、コップのようなものがあると仮定して、そのコップに情報を流しこむ...どれぐらい流し込んだらコップがイッパイになるか、そういう編集です。今の映像業界のなかではかなり特殊なテクニックではありますね。
こうして作った映像は当然ですが、長くなります。実際、一目瞭然DVDの最新作「戦車模型の作り方 応用編」は、6時間もあります。
で、 その6時間を見てくれたユーザーの評判はと言うと、まあ、上々のようです。そればかりか、実際に模型をやらない(僕自身もそうなんですけどね)、興味本位 だけ、もしくは千崎との付き合いで見ちゃった人も「なんか妙に面白い」「結局全部見ちゃった」など、好意的な評価を複数頂いています。

もちろん、なんでも「はしょらない」でいけるわけではありません。この考え方が通用するのは手仕事など体を使うものに限られるでしょう。
例えば、PCソフトや何か機械のオペレーションを教えるような場合だと、ボタンやダイヤル、キーボードやマウス、ペンタブレットといった単純な入力装置で、しかも、均質なインターフェイスの中でやるわけなので、じっくりプロセスを追うことより、適宜はしょって「段取り」と「ロジック」を伝えることの方が重要な場合が多いと思います

しかし、PCソフトでも、ペイントソフトで絵を描く、といった場合には、はしょらない、実感をともなった表現が必要になってくるでしょう。それはPCソフトの使い方の話ではもはやなく、「絵の描き方」の範疇に入ってくるからです。

つまり、アナログ的なニュアンスや加減、塩梅が重要なものは「はしょらない」方が役に立つ、「実感値」を大切にした編集が役にたつ、いや、そういう風にしなければ役に立たない、という事は言えるような気がします。

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2010年6月 8日 (火)

昔作ったBGMが出てきた

数年前、とある展示大手N社が、インターネットテレビを運営していまして、そのディレクションを担当していました。広告費が集まらず、半年ほどで消滅してしまったんですが、HDDを整理していたらその時に作った番組のサントラが出てきました。
聞いてみたらちょっと面白かったので、ちょこっとマスタリングし直してアップしてみます。30分ほどあります。
長いのでテキトーに飛ばし聴きしていただけると...。

UENOISM BGM(32M)

ファイルは、仕事のデータ受け渡し用iDISK上に置いているので、容量が怪しくなってきたらそのうち削除するかもしれません。

上野界隈の史跡や文化施設、裏町をうろつくうんちく系散歩番組だったんですが、選曲予算もないので、ディレクションやりながら、アップルのSoundTrack Proで制作したものです。
なのでループ音源は90%STPについてくるアップルループ、一部にソニーから出ているAcid用のループ素材を使っています。

ループ使って音を作っていると、音楽を作るというのは音楽を聴くことなんだな、と思えてきますね。それと、自分のものという実感がわかないので、良くも悪くも音に対して責任感が軽くなる、なので短時間に作れる。楽器弾きながらではそうは行かないですよね、精神的にも。

僕のように、10代の頃、4トラックカセットで音楽作りを始めた(宅録ですよ)世代にとっては、ループシーケンサとか、有りネタをコンバインして音楽を作る世界というのは、なんか、変な感じですね。独特の居心地の悪さみたいなものがあります...「自分で出した音じゃない」からかな。
でも、まあ、楽しいですけどね。プレゼンなんかにも便利だし。

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2010年5月15日 (土)

映像と言葉

目に包丁が突き刺さっている、とか
お腹が破れて不気味な生き物が飛び出してきている、とか
国会議事堂が燃え上がっている、とか
あとは、そうだなあ、現実の例だと、
打ち上げられたスペースシャトルが空中爆発している、とか
脱線した電車がマンションに突っ込んで蛇腹になってる、とか。

こういう強烈なイメージ=映像は、おそらく最速で脳に届いて、素早く反応を引き起こし強く記憶される。

● 映像の平均速度
でもしかし、そういう映像は実際のところ、ほんとうに稀なもので、世の中に存在するほとんどの映像はごく普通の街の風景だったり、普通に美味しそうな料理だったり、普通にかわいい女の子だったり、たいしてインパクトのないものなわけで。
という事は、映像って、情報の運び手としての平均速度というのはそう速くないと思う。
ここで言う「速度」というのはメディアとしての伝搬速度の事ではなく、視聴者なりが情報を受け取って(つまり見て)、反応するまでの時間、という意味なんですが。

映像は言葉よりもダイレクトに訴えかける、脳に、素早く届く、と思われがちなんですが実はそうでもないのではないか。
ものすごく速いインパクトのある映像と、ふらふらしているだけの映像とが混在している、というか。そういうものが映像なんじゃないか。

そして、そのほとんどは、「意味するもの=方向性」みたいなものも、どちらかと言えば曖昧、というか多義的です。現実が多義的なように、現実に酷似している映像というものも、また多義的なわけです。

●言葉の役割
映像のそういう「ばらばらな速度と方向性」を補完して「揃えていく」ののが「言葉」のような気がします。

こんな事を思ったきっかけは、テロップについて考えていたからなんですが。

内容によって速度に差があったり、方向性がちょっとふわついていたりする映像に対して、言葉は安定した速度で情報を運ぶ電車のような存在。

ふらついている映像に、テロップやナレーションなどで、言葉を追加することで安定した速度としっかりした方向を与えてやる、といったイメージ。

まだテロップの入っていない映像(いわゆる白完パケ)に、テロップを入れると完成度が高まって「締まった」感じになるのは、文字通り映像として完成した見た目のことばかりではなく、ちょっとふらついているカットやシーンが、テロップの言葉によって、方向性とか速度がはっきりするからなのではないかな、と思います。

この、イメージと言葉の組み合わせのしかたによっては、視聴者により強く訴えたり、逆に、意図的なミスリードを促したりすることも可能になるわけです。

考えてみれば、これは映像に限ったことではありませんね。
写真とそのキャプションやタイトル、紙芝居の絵とおじさんの語り、絵画の題名などもそうでしょう。

人間はイメージと言葉の組み合わせが好きなのだと思います。
どうしても、イメージを見ると、人は言葉が欲しくなる、イメージが言葉を呼び寄せるのでしょう。
絵手紙ブームなんていうのも、そういう事なのかもしれません。

●言葉は映像作品の芯みたいなものなのかも
僕は、映像作品は「情報の束」だと思っています。
映像と、音響と、言葉とが束になっているような状態をいつもイメージしてしまうんですが、この中で言葉は、その束の芯になっているものなのではないでしょうか。

昔から、良い映画が成立するための一番の条件は、良い脚本だということが言われますが、これは、映像作品=情報の束のための「芯=言葉」を強く、正しく作るという事なんだと思います。

●派生的に思うこと
こんな事を考えていて、他に浮かんでくるのは、以下などですね。

・映像にも言葉的な側面がある。
・言葉にも映像的な側面がある。
・映像につける音楽は、音楽の「言葉的側面」を発揮する場合がある。
・言葉で組み立てられた論理が良ければ良い作品になるわけではない。そこに「演出」という肥沃な領域がある。

映像と言葉の関係は、考え始めると深すぎる。

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