SIDE B 生活

2013年4月22日 (月)

このところ

年が明けてから、なんだか1周間が異常に速くて参っています。
月曜に仕事を始めて、ふと気がつくと週末です。特に4月に入ってからは、ほんとアレッ?という感じで毎週が終わっていく。
というわけで、週一更新を誓ったこのブログも、ついつい滞ってしまうわけでして。

<計画その1>
先々週のことになりますが、ほんとに久々に一緒に仕事をする音楽家と、打ち合わせをしました。
彼とは、以前に、長野県の養護学校の愛唱歌を一緒に作ったことがあります。彼が作った曲に僕が詩をつけたもので、自分でいうのもなんですが、なかなかいい歌なのです。
で、「あの歌、初音ミクにしてみた」というわけです。聞かせてもらったんですが、なんか不思議な気分ですね、自分の書いた歌詞を「キカイ」が歌ってるんです。
そのうちこれはカラオケ申請してYouTube公開して...と面白い展開が待っています。実にまー50年生きてきて面白い時代になってますね。公開したらまたご報告します。
音楽のことばかり考えていた20代のころの自分が今現在ここにいたら何やってたかな〜、とか考えてしまいますね(笑)。

<計画その2>
このところ、アマゾンの電子書籍サービスKindleのダイレクトパブリッシング(KDP)まわりが賑やかです。
電子書籍が普及してくるとどんな事がおこるのかな~、と考えていて、去年あたりのことですが。
多分、ブログブームのような、プロではない書き手が電子書籍を作りはじめ、安い価格で出回ってにぎやかな状況が訪れる、と思ったのです。
書籍のインディ化といった事が起こるのではないか。同人誌系のみならず、あらゆる分野でインディーズライターが爆発的に増えるに違いない。
Kindle ダイレクト・パブリッシング (KDP)
誰でも、モノを書く意思があって、実際に書ければPCから出版できるようになったわけです。
これは大きいな、と思い、いろいろ情報を収集しています。
読書の楽しみとは、とか、紙の本の魅力は、とか、出版文化とは、とか、そういう事とは全く無関係に、データでしか存在しない書籍というものがどんどん増殖していく。これは、必然であるとともに、とても興味深いし面白い。
これに乗らない手はないんじゃないかなぁ。
数年前のブログの状況が、電子書籍という器で復活してくるのかもしれません。
Kindleで99円書籍をリリースりしているというのが普通の状態になる。
自分でもデータとりがてらやってみようと思っているのです。
久々に、デジタルコンテンツまわりのワクワク登場、そんな感じがしています。

と書いてくると、今、お金もないし時間もない、けど何かやろうか、という時にやはりネットやデジタルコンテンツという事になってしまう、とあらためて思いますね。
いい時代、という事と、手触りのない時代、という事を両方感じます。けれど、手触りに関しては「ネット的な手触り」みたいなものを新しく想像(創造)する、ということなのかな。

「貧しい21世紀」にはとてもふさわしい...と思います。

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2011年12月31日 (土)

2011年かぁ...。

毎年、年末になると、本年のまとめを書いているのですが、今年ばかりはうまく行きそうにありません。あまりにも、重篤な事が起こりすぎていて、年単位でまとめられるような事態ではないと思うからです。

この先、僕らは本当の未体験ゾーンに突入していくんじゃないか、という気がします。

関東東北の大地震と、僕の故郷も流し去った東北の大津波、福島第一原発の壊滅的な事故、超円高、欧州の金融危機、朝鮮半島情勢の流動化、などなどが、予測や予想ではなく、現実に、今年1年の間に、実際に起こってしまいました。

<↓津波にやられた僕の故郷一帯今年5月。海の神様を祀る熊野神社の階段からの風景>
Imgp0242

<5月に帰省した時のリポート記事>
<9月に帰省した時のリポート記事>

その中でも、やっぱり一番悲観せざるをえないのは、福島の原発事故です。
本当に大変な事になってしまいました。

<↓核爆発の可能性も指摘されている東電福島第一原発3号機の爆発>
Images

震災前、もしも国内の原子炉が3基も同時にメルトダウンするという事態が起こったら、日本は壊滅するに違いない、と、誰もが思っていたと思います。
そして、そんな悲惨な事は起こるハズはない、東電は折り紙つきの日本の最先端技術を使ってあらゆる事態に備えているし、政府も、原発事故に備えて万全のマニュアルを持ち、人々の安全のためにしっかり機能してくれるに違いない、と(少なくとも僕はね)思っていました。

でもそれが実際に起って、9ヶ月を過ぎようとしていますが、どうも、東電は安全対策に対する手間やカネをケチっていたし、事故後の情報も都合の悪いものは隠しているようだし、政府も実は原子力災害マニュアルもろくに実行できず、なんだか場当たり的に「政治判断」とかいう「テキトーな」対応を繰り返しているようです。
もちろん、野田総理の「事故終息宣言」は、多くの人が指摘しているように、完全な茶番です。

日本、少なくとも東日本は今回の事故で、出生率も減り、住民の寿命も短い「被曝地帯」になりました。いみじくも枝野さんがのたまった「直ちに」の時期は過ぎてきましたので、ぼちぼち、これから健康被害が全国で目に見えてくるでしょう。日本人は、多かれ少なかれ、全員が「被爆者」になりました。
例えば、なんか最近若い人が死にやすい、よくわかんないけど周りの人みんな体調が悪い、あるいは、栽培している植物がなんか変、奇形や発達障害の子供が身近によく生まれるようになる、ノラ猫が今まで見たことのない病気になっている、みたいな事が日本の広範囲に起こってくると思います。
「みんなすぐに放射能で死ぬ」みたいに緊急なことではないけれども、うっすらとした生命の危機が蔓延する日常がやってくるんだ(来ている)と思います。(福島などの高線量地帯ではもっと直接的で悲惨な色々な事が起こるでしょう...せめて福島の「悲惨」に対しては手厚い国の援助をして欲しいものです)。

生命活動に放射能が作用したら、生物の細胞(人体も)は正直に反応するだけです。原発事故以降、高濃度の汚染地帯で何の変化もないのなら、おそらく、生物が放射能に対して進化した事になるんでしょうけれど、そんな事、あるはずがありません。何の変化も認められないのなら、その調査がオカシイのです。

例えば、公に発表されている東京の放射線空間線量ですが、南東北に比べれば低めとはいえ、場所によっては事故以前の2〜3倍はあります。さらに、雨水などで凝縮されて信じられないぐらい高い所も際限なくあるでしょう。それでなんの影響もないわけはないと思います。

<放射性物質の汚染日時と範囲 群馬大早川教授のブログ>

津波被害の瓦礫の処理にしても、福島の東電原発事故のおかげでまったく滞っているわけです。原発事故さえなかったら、東北の太平洋沿岸の未来も、もう少し明るかったはずなのです。

というわけで、ひとことで言うと、不安、というか不明、というか...そんなカンジです。
自分や身内の健康が不安、というより、先程書いた「うっすらと生命の危機が存在する状態」が世の中をどう動かしていくのか解らないからです。

農業や漁業といった一次産業は、一体、どれだけダメージがあるのか、まだ全貌は誰にもわからない状態だし、かといって、作付けや漁をやめれば食べていけない...という訳だし、行政や東電が何か親身になってやってくれる事でもないようだし、どうなるんでしょう。
特に海洋汚染は大きな不安の種です。海が放射性物質の放出でとんでもなくマズイことになっているとすれば、島国日本は、水産業もそうですが、精神的にも本当にヤバい局面にたたされます。その範囲は三陸沿岸にとどまらずに、沿岸海流によって太平洋に面しているあらゆる沿岸に及ぶわけで...千葉県なんかはもう影響でていますよね。

今にして思えば、あの巨大地震が、世の中のスイッチを大きく切り替えたんだと思います。そこに間が悪く、バカで不完全な原発があったがために余計にややこしい事態になり、「ちょっと先の未来」が見えにくくなってしまった。
しかもさらなる大地震の予兆も現実的にあるわけだし。先の大震災の巨大余震の危険はあと数年間はそのままここにあるわけですよね。
震災前の日本は、ちょっと暗めで弱めで不景気だけど、まだ安定していて、それなりに先が見通せるような気がしていましたが、震災後は、とても流動的でぐにゃぐにゃした、不安定なトーンが「暗くて弱くて不景気」の上にさらに加わった感じ...?かなあ。

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仕事については、まあ、とりあえずは、目先のことを粛々と、という事になるんですが、うちが、この先プロダクションとしてやらなければいけない方向は多分決まっていて、それは、個人の消費者に対してアプローチする事だと思います。つまり、映像の「小売り」ですね。
今も、僕が代表をしているイメージメカニックLLPでは自社制作のDVDタイトルの販売をやっていますが、たしかに、いわゆる「ロングテール」というものは存在します、それは数字としてわかる。
発売当初は、企画さえ間違えてなければある程度売れるわけですが、売上が下がりきった所で、それ以上下がらない、下がりきっているけれども、無視もできないボリウム、というのが確かにあります。
このロングテールを必要な太さに増やしていければ、いいんじゃないか。ざっくりいうとそんな感じです。

行政や企業、マスメディアの仕事は効率もいいし、経営的にはとても助かるんですが、この数年の経験からいうと、それって実は想像以上に脆弱で、景気の動向に驚くほど迅速に、敏感に反応するんですよね。特に最近は、何か起こるとサッとひいちゃう。なにしろ、不安定な時代ですから、そういう企業や行政の仕事もやっていきつつ、それとは違った原理で動く最後の頼みの綱を確保していかなければ。

企業の発注に比べると、個人の趣味的な消費はやや、ゆっくり反応している印象があります。特に、うちがやっているような、ごくニッチな領域だと景気の影響すらほとんどなく(は言い過ぎですが)、地下水の温度のように一定。これを、ごく僅かな温度差を使った発電みたいに、地道に開拓していくのがいいかなあ、おもしろいのかなあ、可能性あるんじゃないかなあ、と思います。

あとは、そうだなあ、フリーのCGソフト、Blenderのポテンシャルをこのところ研究しているので、これを仕事に活用していくノウハウをさらに高めて行くこととか。

それと、映像のアウトプット先として、スマフォのアプリに可能性があるのかどうなのか、その辺りを探っていきたいと思っています。それに伴うビジネスモデルも、自分なりに見極めたいと思います。

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で、また話はもどってしまうんですが、今必要だ、と切に思うのは、今年起こった、特に震災+原発事故をわすれないようにすることです。マスメディアを通じて「もう忘れて前を向こうよ!(震災も原発も、それらによって明らかになってしまった政府や自治体のブラックなあれやこれやも)」というキャンペーンがはられているし、年明けには更にそういうバイアスが強くなるでしょう。何事につけても忘れやすい日本人は、しっかり警戒して、みっしり頭の中に叩きこむ必要があるのではないか。年末に入って、政府の原発事故トンデモ収束宣言以降、原発問題に関してはテレビの「御祓」「ガス抜き」番組が増えてきました。警戒しないと。
しばらくは、アートやメディアは、このふたつのテーマに絞って表現活動を行なってもいいじゃないか、ぐらいの大きな出来事だったと思います。戦争地帯で戦争をテーマにした表現が主流を占めるのは自然なことでしょう。しかも、このネタは今後少なくとも50年ぐらいは、現在進行形であり続け、古くならないものです。福島東電原発事故に限って言えば100年は現役なテーマです...。

2011年に日本に起こったこの最悪の事態を、なるべく具体的に、詳細に覚えておく事が、リアルタイムにこの災害に遭遇してしまった僕らの責任なのかな、と思うしだいです。

しかし、今年はほんとに蝉が少なかったな~。
来年以降に自然界に見えてくる放射線の影響も気になりますね...。
ノラ猫たちも、放射性物質が濃縮しやすそうなところを好んでうろつくんだよな〜。

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2011年11月16日 (水)

カセットテープ

引越しの時に捨てずに持ってきたカセットテープのライブラリが段ボール箱(引越しダンボール大)にいっこぶん。
これをなんとかデジタイズして捨てようと、こんなものを購入しました。
コイツを使って、仕事しつつの裏稼業でカセットテープのデジタイズ作業に精をだしています。

イオンオーディオ Tape Xpress

USBでPCにつないで、カセットテープを再生し、MP3に変換してiTUNESのライブラリに入れる装置。アマゾンで¥3600だったか(なんか今取り扱いできないらしいんだけど)。
まあ、値段なりの安っぽい代物ですが、十分役にたってくれています。(送り方向の巻き取りがすぐダメになっちゃいました...)
同梱の「Vinyl/Tape Converter」というソフトを使ってタイトルをつけたり、トラックを分けたりもできます...ただ、いちいち面倒なので、アーティスト名とアルバム名だけを入力して、曲名はぜんぶ「Unknown」にしてしまっていますが。

このカセット群、ミュージシャンはほとんど、80年代のインディーズです(あと演歌が少し)。
もう聞き返さなくなって久しい曲ばかりですが、改めて聴いてみると、80年代のこういう音楽のムリムリな方法論が、なんというか「なごむ」。開放感があるというか。「野蛮」なのかな、つまり。

しかし、思えば、カセットテープって良いメディアだなぁ。
素人が自分でハンドリングできるし、データと違ってモノとしての実感がある。
時間の経過と共に物理的なモノ(テープ)が動いていって、その結果音が鳴ったり、録音できたりする。こういうのが、人間の生理にはぴったりくるんだとおもうんですよね。単純に納得感あるし、気持ちもいい。しかも、CDとかと違って、「機構」が組み込まれていて、振るとカタカタ音するし。
生活の中にあって、実に愛すべきモノです。
とても愛らしいメディアといえるでしょう。

あくまで素人が扱う家庭用。でも、その中には色んなものを入れることができます。
カセットを使ったマルチトラックレコーディングだってできたし、インディーズの音楽ディストリビューションの一番簡便な手段でもありました。
家庭用のテクノロジーだからこそ「安く」て、そのかわり、ユーザーの知恵で色々な広がりが生まれてくる。ちょっとした使い方のコツに熱くなってみたり・
そういう意味では、8ミリフィルムもそうですね。

アナログ時代にあったこの、厳然としたプロ用、家庭用の線引きが無くなった「今」って、まぁ、便利な時代なんだけど、なんかちょっと、面白さが減った、という感じもします。
誰でも、失敗なく、高品質、というデジタル時代の恩恵が、本当にシアワセにつながるのかどうなのか、そんな事も考えてみる時期なのかなあ、と。

デジタイズしながら、おお、これやっぱりいいなあ、と思ったのが、これ。キュアーです。
当時(80年代)のバンドの中では、メロディの力が一番あったような気がします。
なんかちょっと色物っぽいんですが、当時のバンドは色物じゃないとつまんないですよね。

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2011年11月 5日 (土)

牧野記念庭園

9月3日は、やらねばならない仕事もありつつ、リフレッシュしたくて、出かけてきました。
行き先は、練馬にある牧野記念庭園です。
植物学者、牧野富太郎博士の自宅跡地。こじんまりとした庭園に、小さな展示スペースがあるだけの施設ですが、これが、実にイイ。

↓妻の名を冠したスエコザサに囲まれた博士の像。
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ここは庭園というより、生きた植物のコレクションで、博士が自ら採集してきた植物がみっしりと植わっています。なので、いわゆる庭園としての美しさというより、博士の植物に対する執念や執着、愛着、興味、そんなものが、植物の形をして集積しているような、とても濃密な空間だと思います。

↓季節柄花の少ない庭に咲いていたタイワンホトトギス。
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↓かわいらしい茶の蕾。
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展示室は9月にリニューアルしたばかりということで、新築の匂いがしました。
以前はそのまま屋外においてあった、博士の書斎も、建物の中に収容されています。植物標本と書物に埋まった空間に、何日もこもる事もしょっちゅうだったとか。
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↓博士の名刺。ぐっとくる。
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書斎のそばには、博士在りし日の書斎の様子をリポートした雑誌の記事が掲示してありました。そこには、庭の植物一株一株が、おそらく博士にとっては、それぞれ一冊の本のようなものであったに違いない、と書かれていて、ほぅ、と、感心しました。たしかにそうだったかもしれません。
博士の庭のみならず、世の中のコレクションというものは、すべからく、コレクターにとっての書物だろうと思います。
その本が読めないひとには、単なるがらくたであっても、読める人には格別の価値を持つわけです。

おそらく、牧野博士にとっては、道端に落ちている一枚の木の葉も立派な書物であったに違いありません。そういうものを読めるようになることが、博物学、というか、学問というものなのかもしれんな〜、と、帰りのバスの中で考えました。

家に帰って、カミさんが録っていた「妖怪百物語」をみました。この映画、どこかで、牧野博士の庭に通じるものがあるような気が。
どちらも、何か、ものすごく重要な「基本」について語ってくれていると思います。

良い一日でした。

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2011年7月26日 (火)

この土日/不滅のシンボル鳳凰と獅子/人生に乾杯!

このところ、休日も引越しや仕事でバタバタしていていたんですが、この土日は久々に休日らしい日を過ごしました。

土曜日は、以前カミさんが懸賞であてたチケット、サントリー美術館の「不滅のシンボル 鳳凰と獅子」が、あれ、今月24日までじゃん、という事になり、急遽かけつけたのです。
なにせ、六本木、東京ミッドタウンですよ。板橋の田舎者としては若干緊張、最近着ていなかった赤地に牡丹柄のアロハを着込んでテレテレと出かけました。
展示、おもしろかったです。鳳凰と獅子、もう日本人にとっては空気のようなこれらのキャラをあらためてみてみるという体験は実に新鮮。企画が立ってますね。
猫好きとしては、やはりどうしても獅子の方に目が行ってしまいます。獅子は、もともとライオンを原型としながら狛犬と合体したり、釈迦を守ったり、といろいろ変遷しているようですが、日本では、なんだかめでたくて花があるキャラクターとして獅子舞などで活躍。着ていったアロハシャツの柄とも呼応しつつ、楽しい時間を過ごしました。歌舞伎ではボタンを咥えて舞い踊るというのが定番。
獅子舞のしぐさをみてもそうですが、日本では、獅子がライオンから、次第に猫化する=盆栽化する感じがあっておもしろい。展覧会は獅子だけで押してもよかったのかも、と思いました。
鳳凰は、原型がない分、想像上の縁起物にとどまって今ひとつ感慨が薄かったですね。それでも、若冲の描いた鳳凰の奇っ怪な姿や、江戸後期の鳳凰柄の銀器の繊細さはすごい手技でした。帰りに、あれ、そういえば、空の大怪獣ラドンって、鳳凰が原型?と思ったのですが、調べてみると鳳凰ではなく、実在した翼竜プテ「ラ」ノ「ドン」のラドンのようです。残念。

で、翌日日曜日は、まぁ、色々やることはあるものの、昼間からだらだらするか、久々に、ということで、昼から安ワインをあけて映画鑑賞でした。ものは、CSの録画で、「人生に乾杯

いやあ、面白かった、そしてうまい。
ハンガリーの映画です。こまごました伏線が実に生き生きと機能していて、本当に楽しい。遠い伏線も近い伏線も、きっちり役割を演じているし、そもそもそのストーリーの本線がぶっとく、たくましい。
簡単に言えば、金に困った老夫婦が銀行強盗を働き、でも楽しそうで、ハッピーエンド、という、ひねくれていつつ、正統派な、上手い=旨い映画でした。主役が老夫婦なのに、これは正真正銘の青春映画です。
時代状況からいって、日本でも、こういう、「老人ノワール」的な映画やドラマが作られていいいタイミングに来ていると思います。
老人は、長い時間を生きていて、どんなスキルを持っていても不思議じゃないわけで、スーパーマンを演じてなんの矛盾もないのが老人です。
このあたりに、今後のコンテンツの鉱脈があるのではないかとおもうんです。

以前から、思春期の反転した状態として老齢期、というイメージが僕にはあって、60過ぎたらもうそれ、15才に戻るんじゃないか、みたいな。
本物のパンクはジジイが体現するんじゃないか。
年金ゲットしながら、暴走パンク爺、といったあたりが理想形としてはある。うーむ。その辺が内田百間(実は門構えに月)先生に通じるのだな〜。

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2011年7月21日 (木)

その上、事務所も再起動。

今回も五月雨式のエントリなんですが。

●事務所も引越し
6月に自宅のリサイズ引越しをしたわけですが、今月、事務所も同様の引越しをしています。
まあ、この状況の中では、少しでも固定費を下げなければいけませんからね。
場所は、現在の事務所から、歩いて5分のマンションです(自宅の時と同じだ)。
今度の事務所は、巨大マンションの9階のワンルーム。風通しは抜群です。
一時は引き払って完全バーチャルオフィス化することも検討したんですが、うちの場合、自主制作販売のDVD在庫もあるし、せめてちょっとした打ち合わせはできないとプロダクションの存在意義としてどうなのよ、というのもあって超安い物件に移ることにしたわけです。
多分、電気料金なども安くできるでしょうし、状況がよくなるまでは、ひたすらシュリンク作戦です。

なにしろ空間が狭いので、僕は基本的には自宅で仕事、土田Pが常駐するカタチで、制作仕事はネットと宅配デリバリーを活用する方向で。
マンション管理人のおじさんが、話好きファンキーで、おもしろい。
こちらも、色々リセットしてしゃきっと行きたいものです。

●肩も...
で、最近、ちょっと根を詰めた編集作業を行った結果、いわゆる「マウス肩」が再発。右肩がイタイんですね。肩甲骨の内側がきりきりと痛みます。
こういう時には、フェルビナクが効きます。いつもはフェイタスのゲルなんですが、近所の薬局になかったので、メンソレータムのフェルビナク配合ゲルを購入して塗りたくっています。
薬局の人に聞くと、一時一世を風靡したインドメタシンは、もう世の中の人々に耐性(?なのかな)が出来てしまい、あまり体が反応しないんだそうです。今のトレンドはフェルビナクなんだそうで、ということは、これも、しばらくすると効かなくなるということか。
右の肩甲骨の痛みは、肝臓が疲れている、という情報もあって、うーむ、むべなるかな...。
ネットのブラウズなんかは、右肩をいたわって左手マウスでやってるんですが、どうしてもFCPやBLENDERのオペレーションは右手という事になってしまいます。
椅子とか机の高さなんかの関係もあるかもしれませんが。
この肩こり的症状のメカニズムは結構複雑らしいですね。肩甲骨と肩の周りには色んな筋肉が集中しているという話。大きくいうと、人類の直立と二足歩行の代償のひとつがこの肩こりなんだとか。やっかいです。

●震災と原発...
震災ショックも、引越しやら仕事やらでバタバタしているうちに、やっと気分的には少し収まってきました。
世の中的にも、平時になりつつある感じがします。
しかしながら、震災でかなり大きなものが純粋に物理的に失われてしまい、東北にはまだまだ復興の勢いは乏しく、しかも、メルトダウンした原子炉がすぐそばに3基もあるという異常事態はまだ収束もせずにそこにあるわけで。こんな状態が日常になりつつある、我が国...。もう、今までの続きはやめて、色々新しくする必要があると思いますね。

ちょっと呆れるのは、与謝野大臣をはじめとする原発推進派の主張です。
「この豊かな社会を維持するためには原発が必要」
「原発なくしては産業はなりたたない」
というものですが、どうかなっちゃってますね、アタマが。病気という他はありません。
貧しくても、産業が衰退して3流国になりさがろうとも、死ぬよりましなのは明らかです。
豊かな社会も、産業も、健康と安全があっての話でしょう。
人命より大事なものがあるわけない。
結局、僕ら世代を含めた年寄りどもが、高度経済成長やバブル期の成功体験を反芻しているだけなんです。愚かという他ありません。
今、日本人は「一番いい物を選ぼう」、というような恵まれた状態にはありません。存亡をかけて少しでも「マシなもの」を選ぶ事が必要なのではないか、と思います。それが原発再稼働ではありえません。

それにしても、放射性セシウム牛肉は、市場に出回っているし、すべてが後手後手な原発事故対策には、国の指導も、もうあまり期待はもてません。今回牛肉で起こったことは、そのうち、海産物でも起こってくるし、あらゆる食品が放射性物質で汚染されているという環境にくらさなければならなくなりました。
起こってしまった事を受け入れて、放射能込みの生活をしていくしか無いんだと思います。日本は発ガン率の高い国になった...数年後から始まる事態に、本当は、政府も東電もビクビクしているのではないでしょうか。
これは、電力どうのこうのではなくて、放射能を生活圏に認めるかどうかという問題で、もう選択肢は「認める」しかありません。なぜなら、ふくいちから大量放出されて、今ここにあるからです。せめてこれ以上悪化する事態は避けるべきで、原発は今すぐ全部止めるべきでしょう。

この状況で「原発事故収束のSTEP1、がっちり終了」と胸を張られても、「はぁ〜?」としか思えませんしね、普通。ちょっとムリなんじゃない?この工程表...という予想通りの結果になっているとしか見えませんが...。

あと、野生動物の被爆調査もぼちぼち行われるようですが、人がコントロールできない野生動物の移動、捕食、によって広がっていく放射能、というものがあるのではないかと思うんです。
今回の東電福島の原発事故が生態系に及ぼした影響はどのようなものなのでしょうか...。非常に気になります。来年の春、福島でどんな形の桜が咲くのか...。

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2011年5月13日 (金)

いまさらながら帰郷/震災後二ヶ月の宮古市

震災から二ヶ月経って、ようやく実家のあった岩手県宮古市に帰省してきました。
出身地の鍬ケ崎地区は、大津波で、まったく、すっかりやられています。
タクシーの運転手さんに「鍬ケ崎の様子はどうですか?」と聞くと「あー、なくなってるね」と。

駅前は、お店も開いていて、一応普通の生活が営まれていますが、沿岸部に向かってあるいていくと、じわじわと一階が崩れていたり穴があいたり、「解体OK」とスプレーされた建物が増え始め、港が見えるあたりにくると、見渡すかぎり瓦礫です。
最初はもっと混沌としていたらしいですが、今は、道路の確保のために瓦礫をあちこちに寄せて集積させています。地元の人いわく「だいぶ片付いてきた」状態ですが、初めて目にする印象としては「瓦礫だらけ」です。
うちは、身内一同、無事だったのですが、生きていたのが奇跡!ぐらいのひどいありさまでした。
季節はちょうど桜が終わった頃、ウグイスがさかんにいい声を聞かせていました。音だけならのどかな春なのですが。

ビデオも回してきたので、動画のリポート、貼っておきます。

道路は確保されているんですが、建物が無くなって向こう側が見渡せるので、歩いていると遠近感がおかしくなってきます。今歩いている場所のかつての記憶と、今見えているものの対応がおかしくなって、ちょっとふらついてしまう。

実際に被災状況を見る前は、被災状況を目の当たりにしたら、色々な事を思うのだろうなと思っていましたが、いざ、目の前にすると、ほとんど感想が浮かびません。
「こんな無茶な事が起こってしまったのか...」単純にそれだけでした。
実際には、多くの人が流されています。震災翌日ぐらいに地元のテレビの報道をネットで見たら「宮古湾に無数の遺体が浮いている」という情報もありました。ご冥福をお祈りします...。宮古の遺体がとんでもなく遠くの海でみつかったりしているという事です。津波は壊すだけじゃなくて、持ってく...。

沿岸部にすむ人間にとっては津波は宿命で、なので、津波を織り込んで暮らしを営んでいます。
「揺れたら上へ、逃げたら戻るな」
実家の裏のおばあさんは地震で逃げて、何か大切なものをいったん取りに戻ってそこで波にのまれたそうです。
母は「昔から逃げたらもどるなといわれているのに...」と残念そうでした。

母の意見「この震災は、自然を好き放題に使ってきた人間に対する報いだ」
地元タクシー運転手さん「まるで夢でもみてるみたいだ」
居酒屋のおかみさん「めかぶ(宮古の名産)も今は三重県産のだよ」
高台に住む叔母さん「地震があって、いつまでたっても防災無線も何もなくて夜は真っ暗になって死の世界のようだった。あとで聞いたら市役所が津波でやられていた」

しかし、この瓦礫が無くなってすっきりしないうちは、物理的にも、精神的にも、始まりはこないのかもな、と思いました。今後どうなっていくのでしょう。

しばらくしたらまた行って、様子をみてこようと思っています。

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2011年4月22日 (金)

このところの心境ですが

震災からもう40日以上が過ぎて、もうそろそろ元にもどらないと、と思う反面、すっかりスイッチが切り替わってしまって、時間の感覚もなんだか変わってしまいました。
まわりにも、そういう人間が何人もいて、今回の大震災の影響の大きさを実感します。
最近仕事をご一緒している、某社Sプロデューサーが「プチPTSD状態」と言っていましたが、まさにそんな感じです。

大津波で、東北の太平洋岸が壊滅してしまった大規模災害が起きて、しかも身内が被災しているという事もあり、同時に世界的にも類をみないほど酷い原発事故が起こり、さらに、それらを収拾すべき政治がちっとも機能しない巨大な人災が見えはじめていまして、それらの災厄が相乗的に働いて、この国がほんとうにまずいスパイラルに入っていくのかも、と思います。

大津波だけでも本当に酷いのに、原発事故はさらに悲惨な状況を作り出しています。
レベル7だけどチェルノブイリの1/10、なんて安全委員会もマスコミも言ってますが、スリーマイル島事故比でいえば11万倍です。しかも原発3基も壊れています。
さらに、その評価の中には、海洋に流れ出たり放出した分はまったく勘定されてはいないし、事故はまだ現在進行形ですから、トータルでチェルノブイリ並かそれ以上になる可能性は否定できません。

三陸の漁業がやっとこ復活できたとしても、採れた魚の放射能汚染ははたして...と思うと心配でなりません...。
海、全部繋がってますから。

原発事故は国のブランドを著しく傷つけますよね。
原発事故がブランディング上意味するのは、日本の技術はおそまつだ、日本に行くと被爆する、日本産の食品を食べるとガンになる、という事です。
事実観光地では(東京でも)それこそ壊滅的な被害を被っているようです。

しばらく、頑張ろうとか、元気をだそうとか、大丈夫だとか、そういう言葉を発するのをやめて、冷静に何が起こっているのか見て考える時間を作るべきなんだろうか...と考えています。
多分、ひと月とかそういう時間ではなく、半年とか1年とか。
これまで、誰も体験したことのない事が進行中なんですから。

おそらくマスコミは、この先急速に平常モードを演出しはじめるでしょう。
が、なにもかも進行形でこの先何年も非常時は続くのだ、とキモに命じておくことにしたいと思います。

あー、また地震だよ。

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2011年2月13日 (日)

コミュニケーション(シンクロ)

仕事仲間で飲み友達の大森さんがやっているブログ「心と社会」で、このところ展開されているのが、ネットを介したコミュニケーションについてなんですが、それを読みながらなんとなく触発されて、考えた事。

あるメッセージが相手に向かって発せられて、それを受け取った相手がそれを理解して、何か行動なりメッセージなりを返す、というのがコミュニケーションの1ユニットだと思います。発信→受信→アクション、概念的にはそういう事なんだと思います。
でも、それをそのまま実行しようとしても、コミュニケーションが成立するかというとそうとも限りませんよね。通じなかったり、リアクションがなかったりすることも多い。

僕は映像をつくってご飯をたべているわけですが、仕事で構成を考えるときに、この発信→受信→アクション、を成立させるための前提をまず考えます。
これが、作品のオープニングで展開する部分になったり、シナリオを書く上での自分の立ち位置になったりする。コミュニケーションの前提となる「場」の設定だったり、受け取って欲しいメッセージの前提や方向性の確認だったり、視聴者との問題意識の共有だったり、そういう事がまずは直近、重要になります。
ディレクターや構成作家ならだれでも当然のようにしている事ですが、そこを失敗してしまうと、視聴者とのコミュニケーションは閉ざされてしまいます。

何か、あるマニアックな趣味をもつ者同士のコミュニケーションでは、興味の対象が共通している事そのものが、大前提として大きくある。あと職業が同じ、とか。

また、落語で名人が出てくる時は噺を始める前からなんか面白い。「さあ、笑わせるよ」「よしきた笑うよ」という大前提が、噺家の登場の瞬間に形づくられている。
これを演出的な面からみると、出囃子、というのもそれに一役かっています。しーんとした中でしずしずと登場して、爆笑を取るのは至難の業でしょう。

あるいは、家族の中というシチュエーションを考えると、同じ物を食べて美味しいと思う、同じテレビ番組を同時にみて同時に笑う、同じ猫を見て同じことを思う、といったコミュニケーション未満の、共感、のようなものが基本的には支配している。その上にコミュニケーションというレイヤーが乗っかっている、という感じがします。

こういう「前提」を例えば、「シンクロ」というような言い方をしてみる。

コミュニケーションの前提には「シンクロ」という、何か、同じ方向だったり、同じカテゴリーだったり、同じ気分とか、そういうものをベースにした「コミュニケーション未満」の状態があって、むしろそっちの方が重要なんじゃないか。
家族や夫婦、恋人・友達同士の「いい気分」をイメージした場合、コミュニケーションというようなハッキリした状態よりも、ぼやっとした「シンクロ」の方が貢献しているような気がします(だから猫が幸せを呼ぶ、またかつてお茶の間でテレビが担っていた役割もそういう事なんでしょう)。

そういえば、今はそうでもありませんが、かつては、ロケの前にかならずスタッフと飲みに行っていました。そういう場でロケの話をするわけではないんです。単なる馬鹿話をして、テンポや方向性を揃える、偏光フィルターで光の波長を揃えるみたいに、気持ちの方向を揃えておくと、本番でコミュニケーションがうまくいくんです。
これなんかも、シンクロした状態を作る事がコミュニケーションに貢献するという例だと思います。

ネットのコミュニケーションが、ついつい失敗してしまう理由は、実は、この「シンクロ」という状態をすっ飛ばしがち、という所にあるような気もしてきます。
ついつい「コミュニケーション」にはやるあまり、すれちがったままコミュニケーションもどきの状態が続いてしまったり、なんか誤解しあったまま、共感しているような気がしたり。誤解し合っていたことが判明した場合に過度に幻滅してしまったり、その為に攻撃的になってしまったり。

これらは、多分、前にも書いた、ネットではニュアンスが欠けてしまいがち、という事情によるんだと思います。

こういう、「シンクロ」状態は、ニュアンスが形づくる儚いものなんですが、儚いという割には、人の心を支配してしまいます。
なので、一回シンクロしてしまうと、もう何年も会っていなかった友人でも、すぐにコミュニケーションが成立して、あれ、10年ぶりだっけ?というような事にもなる。
ネットがキチンとコミュニケーションを成立させるためのツールになるためには、その前段階の「シンクロ」を成立させるぼやっとした「ニュアンス」を伝え合えられるようになる必要があるのでは?と。
言葉を伝えると同時に、発音のニュアンスや、手書きの字の乱れのニュアンスとか、現在、絵文字が担っているような機能がもっと強力かつ自由になって使えるようになる必要があるような気がします。
まだまだネットは、コミュニケーション手段としては発達段階という事なんでしょう。

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2010年10月16日 (土)

煙草

煙草も大幅値上げになったし、喫煙者に対する風当たりは年々強くなるばかりです。

僕はもう30年以上の喫煙者です。
僕が最初に吸った煙草は、父親が吸っていた「峰」でした。今にして思えば、複雑な香料が混じった独特の風味で、面白い味の煙草でした。峰はしばらく吸ってませんが、まだ銘柄としてはあるんじゃないかな。で、それを吸った時、あれ、これは良いものだ、と直感的に思いました。多分これからは一生逃れられないだろうな、という運命的なものを感じたのです。

20代のころは、ハイライト吸ってました。あと、いきがって両切りのショートピース(缶入り)とかも。でも、ばかばか吸うので、胸が痛くなったりして、結局、ケントとかフィリップモーリスとかに落ち着いたのかも。
その後は、ごく普通にマイルドセブンになったんだったか。マイルドセブンの魅力は「何でもない」というところです。空気のように日本人の体に馴染む感じが落ち着く。よく練られた煙草だと思います。

煙草を一番吸うのは、文章書いている時と、編集している時ですかね。作業にノってくるとどうしてもくわえタバコになってしまう。なんでかなと思いますけど。一時期はスタジオで編集していて、ふと気がつくと目の前の灰皿が山盛りになっていてぎょっとしたり。さすがに今はそこまでは吸わないですが(煙草吸うのも体力いるのです)。

で、つい最近まで、軽いマイルドセブンを一日ひと箱吸っていたんですが、この値上がりで懐具合もますます寂しくなるし、どうすっかな、という事で、結局、なるべく「煙管で」という事に。

前から煙管は愛用はしていまして、でも、基本は紙巻煙草、時々煙管でウマイ刻み煙草をすう、という感じでした。というのも、人前で煙管を出すと珍しがられちゃって面倒くさいのです。話しかけられたり、観察されたりします。

現在、煙管で吸うためのいわゆる刻み煙草は一種類しか残存していません。「小粋」というちょございなな名前の銘柄なんですが、これがウマイ。純国産の煙草葉だけを、日本に一台しかない、特殊なカッターで極細に刻んだものです。
これを、少量とって丸めて煙管に入れて吸います。この時、しんなりしているとウマイ一服ですが、パサパサだとちょっといがらっぽくてまずくなります。葉を丸めながら空気の湿度も感じるわけです。乾燥する冬場はまずくなりがちなので、箱に菜っ葉や、みかんの皮を一欠片入れるというのが作法。
刻み煙草が切れると、しかたがないので紙巻たばこをバラして煙管で吸ってみたりしますが、これはあまりピンと来ませんね。葉の刻み方が荒いので、燃え方が遅く、刻み煙草に特有のスパッと吸う切れがないので楽しくない。じんわり燃えてなんだかアカぬけないんです。刻みたばこの魅力は、ちょっと吸うと一瞬にして燃え、瞬間的に煙が発生する、というところだと思います。細く刻む理由がそこにあるというわけです。煙の質は密度が高く、キメが細かくて、しかもさらっとしている。

煙草の起源ははっきりしないそうですが、3000年前のマヤ文明までさかのぼるといわれています。その後、アメリカの先住民族が宗教的な儀式に使っていた煙草が、大航海時代にヨーロッパへ、そして貿易ルートに乗って世界に広まったものだそうです。世界の喫煙習慣の元はコロンブス。ヨーロッパでは、当初は「薬」として定着していったようです。
日本には、慶長のころ(江戸時代の初期)、鉄砲の伝来とともにヨーロッパから輸入されたといいます。火災の原因になったこともあり、表向きは禁止されましたが、実際にはお目こぼし状態で庶民の間にも広まりました。そういった中で、刻み煙草を煙管で吸う、という文化が生まれたのだそうです。ここまで煙草を細く刻むというのは、浮世絵の版木に髪の毛を彫り込むのと同じような「こだわり」を感じますね。

まあ、なんだかんだ言っても、煙草は煙草です。ニコチンを摂取したいから吸うのです。お酒もお茶もそうですが、人類には、そういう、自然界から得た特別な物質を何らかの方法で摂取する文化があるんです。人類は3000年も、この植物を燃やして吸っているわけですから、「健康」というものさしだけでは計れない効用があるのではないでしょうか。煙草が登場しない犯罪映画や刑事ドラマは寂しいし、小道具に煙管が登場しない時代劇もシマラナイでしょう。ヨーロッパではカフェが分煙の負担に耐えられずに潰れているそうですが、それも、ある種の文化的損失ではあると思います。
まあ、文化は変化していくものなので、この勢いだと、煙草を吸わない文化になっていくんでしょうが、僕はその変化の後ろのほう、時代遅れの側にいたいと思います。なんでもそうですが、イエスかノーかの2分割で済んでしまう状況はつまらないと思いますしね。

ちなみに、僕の尊敬する内田百けん(門構えに耳)先生は、幼稚園の頃からの愛煙家だったそうです。

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