SIDE B 本

2012年9月11日 (火)

「おじさん」的思考(内田樹)感想文的な...

内田樹さんの「「おじさん」的思考」という文庫をふと買ったのです。
それをよんで、深くうなづいてしまいました。
日本の現状を、社会学、経済学、心理学、文学など、多彩なネタを使って語っています。内田氏は武道家でもあるので、論のあちこちに、身体や身体を介した認識論などがスパイスとして効いていて、とてもおもしろかった。
いくつもの共感できるパラグラフがでてくるのですが、例えばこんなの。

「私たちの知的努力の向かうべき方向は、いかにしてこの国の崩れかけた屋台骨を支えるかではなく、傾いた屋根の下で、雨漏りや隙間風に文句をつけながらも快適に暮らせるような「生活の知恵」の涵養である。(老人国にむけてのロールモデル)」

そうだよなぁ~。と思う。
もう、日本の人口は増えないですよね。この先、どんどん減っていきますよ。これは政策がどうの、社会保障がどうの子育て環境がどうの、という問題じゃなくて、国としての聚落が始まっているのでしょう。目覚しい経済成長は、過ぎてしまった日本の青春時代であって、もう戻ってはこない。
明治が始まって生まれた近代的な日本は、なんやかんやありつつ、戦争、敗戦、高度成長、そして経済の聚落を経験し、さらに、2011年3月の震災や放射能汚染を経て、今、次のステージへむけて「佇んで」います。
日本の将来のイメージは、バリバリ成長する明るく活力にみちた国、では多分なく、黄昏て、成長も下げ止まり、人口も少なく、世界の中でもあまり目立たない、静かな国になると思います。しかも国土は放射性物質で汚染され、30年後を考えったって福島第一原発は事故収束の道なかばでしょう。つまり、国力のない国になる。
それはそれでいいんですよ、と思う。問題なのはそういう状態になって「笑って」過ごせる国になるかどうかなんだと思います。

今投資すべきなのは、そういうぱっとしない国になった時に(というかほぼなってきてますけどね)、人々がプライドを持つために必要な「伝統」とか、こんなぱっとしない国だけどよその国ではなかなか得られない「安全」だとか、ぼんやりした国だけど他国の一部から熱狂的に支持される「文化」だとか、ダメな経済の中でもなんとか生きていられる「コミュニティ」だとか、そういうものだと思います。せめて国民が自殺しにくい国にすることを考えるべき。成長はそのあと、ぼちぼちできる範囲で考えていけばいいし、なんなら成長なんてしなくていいんじゃないか。

なんか今の日本は、体にだいぶガタがきてそうとうヤバい状態になっているのに、トライアスロン出るぞ!とか言って過剰なトレーニングをしようとしているおっさんのように見えます。もう年を考えろよ、せめてまずこの軽い糖尿なんとかしてからにしろよ、死ぬぞ、という感じ。だから原発もやめたほうがいいし、グローバル「競争」もほどほどにしておいたほうが良く、大人しく、粛々と国内の幸せを追求すべきだと思います。

日本は、何か、小さくて独特な、しぶとい国になればいいと思います。

これは、決して悲観していっているわけじゃなく、もう誰も、経済のV字回復なんてありえないと思っていると思うし、そこで精一杯頑張って実現できる社会の、「もっともいい形」って、そういう事かなぁ、と。

もひとつ気に入った部分引用。

「私は匿名で発信する人間が大嫌いだけれど、それは「卑怯」とかそういうレヴェルの問題ではなく、「本名の自分」というものが純粋でリアルなものとしてどこかに存在している、と信じているその人の妄想のあり方が気持ち悪いからである。(「私」は私の多重人格のひとつにすぎない)」

「本名の自分=本物の自分=仮面の下に隠された一番大事なピュアもの」なんてさ、ただの妄想にすぎない、というのは、ああ、まさしくそのとおりだと実感できます。だって、誰しも「自分」はその時の環境や人間関係ごとに、ゆらゆらと揺れていて、プラモデルのようにカチッとまとまったことなんてない、と実感しているんじゃないの?
その局面局面に合わせて変化する自我を、傷つくこと無く「うまく切り離す能力」を備えることが「大人」なのである、と、そう内田センセイはおっしゃるのです。

...で、先日、ある映像系の人材派遣会社で、新卒内定者向けのセミナーをやらせていただいたんですが、その最後、質疑応答でこんな質問がでました。
「千崎さんが、ここだけはどうしてもゆずれない、クリエイターとしてこだわっている事はなんですか?」
うーむ。つまり、この人は、僕のクリエイターとしてのアイデンティティはナニかと問うているわけです。正直、ちょっと詰まってしまいましたが、しばし考えて答えたのが
「こだわらないことによって開かれていく事もあるよ。むしろものづくりはこだわらない事で可能になるかも」
でした。もうちょっとごにょごにょした言い方でしたが。
そこでなんか、そういう質問に違和感を感じるのは「ものを作っているひとは、絶対に譲れない何かを持っていて当然だ」という意識です。これは教育のせいなのかなぁ。別に、こだわり、ないですよ。そういうこだわりは、なんていうか、患者を選ぶ医者みたいなものだと思う。
その時に自分がやらなけれいけない課題に対して、適切に、ある場合には過激に、またある場合には穏便に対応していく「作る動作」「作る所作」みたいなものがクリエイターという事なんだとおもうんだけど。まぁ、もちろん「原発がらみのしごとは断る」とか、そういうのはありますが、それはまた別の「営業の姿勢」の話ですよね。

で、セミナー終わったあとに、参加者の感想アンケートを見せてもらったら、先の質疑応答に関して「こだわらなくてOKという言葉がなんか安心した」というのがありました。やっぱりなんていうか、アイデンティティ幻想というか個性礼賛幻想というか、そういう事が若者を窮屈に苦しくさせているのかもなぁ、と思ったのでした。芸術系の学校なんかだとよけい「個性的に」「自分独自の」ふるまいや考え方を要求されたりするだろうしな。
その結果「これだ」と何かを決めてしまった人は、それが手放せなくなって妙に頑固でかたくなになり、それを続けていくうちにその価値観や個性を手放すのが怖くなり、結果、石仏みたいに静止してしまう...これはコワイですね、人格が壊れてしまう可能性だってあると思う。

人間も生き物である以上、「これでキマリ」という何か完成形があるわけじゃないし、ゆらゆらしながら、ずるずる行くものだと思います。問題は、そのゆらゆらずるずるがどんな「ゆらゆらずるずる」か、ですよね。

なんか、エントリ自体がずるずるしちゃいました。
この本、おもしろかったです。後半の夏目漱石における「大人論」も楽しめました。


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2010年12月10日 (金)

スモール・イズ・ビューティフル(E.Fシューマッハー)感想文

普段、経済学関連の本などは、ほぼ読むこともなく、かつてベストセラーになったというこの本も、実はまったく知りませんでした。
Twitterのあるつぶやきを通じてなんかひっかかり、今さらながら読んでみたという次第です。

書かれたのは1973年という事ですが、まさしく「今」の事について書いてある、そんな感じがしました。以下は、この本の感想文のような文です。

●身の丈
ほんとにザックリ書くと、この本に書かれている事は、身の丈の技術で、身の丈の開発をし、身の丈で暮らす事が人類の幸福である、ということかな。
というとなんかスローライフ本っぽいですが、書かれているテーマはもっと硬派なもので、経済学が本当に機能する経経済学であるためにはどうするべきか、という事を背景に置きながら、環境問題、資源、教育、途上国の開発、巨大企業(の存在)がもたらす様々な弊害、さらにそれらを解決する処方箋を論じていて、「仏教経済学」という概念についても語られています。

著者は、キリスト教徒のようで、そこかしこに、信仰に基づく倫理観が顔を出します(知恵・勇気・正義・節制)。そしてそれが失われている現在(70年代初頭)について憂い、解決策を具体的に記しています。

●成長
著者が、あらゆる「活動」の規範とするのは「いつ成長をヤメればいいかを知っている、生命活動」です。生物はいつまでも成長するなんて野放図な活動はしません。一定の期間、一定の状態になるまで成長を続け、そして成長は止まります。
それを理想とすれば、経済活動の目的が「止まることなく成長し続けること」とされている事には、根本的なギモンが生じます。
志向すべきは、何時までも成長し続けることではなくて、調度良い大きさまで成長する事であり、「足るを知る」ことであると書かれています。そして、それを実現する「調度良い人間的な技術」を「中間技術」と呼び、最大限の重要性を与えています。素朴な手工業と巨大な工場との中間に位置する、人間に「最適な」規模の生産技術などがそれにあたります。

そもそも、有限であるエネルギー資源を糧にして成長する産業が、いつまでも成長し続けるわけがない。
どこかで成長を止めなければならないし、成長し続けたければそのスピードを緩めなくてはなりません。にも関わらず、「さらに効率よく、さらに大きく成長するためにはどうしたらいいかばかりを考える」風潮は「現実から遊離したある種の狂信」であるとされます。

産業、経済、技術の世界では、生物の進化になぞらえて、弱肉強食、適者生存、といった事が言われます。弱いものは食われて滅び、強いものは食って勝つ...。
これも「狂信」のひとつでしょう。
自然界では、たしかに、力が弱かったり、体が小さかったり、移動が遅いものは、それよりも力が強かったり、体が大きかったり、速度が速いものに食べられます。が、かといって、食べられるものが生物として「弱い」わけではありません。食べられる代わりに、莫大な量の卵を生んだり、巧妙に隠れる技術をみにつけたりして、ちゃんと生存を続け、時には大繁栄します。食う方も食われる方も、生態系の中でそれぞれの「役割」を演じているだけです。そこには、勝つも負けるもありません。
適者生存にしても、適者はたしかに生存できますが、いまいち適応できないものもそれなりに生存し、環境が変わった瞬間に適者に成り上がる、というのが自然の摂理です。むしろ、生存できないのは「過剰に適応した生物」です。あれだけ反映した大型の恐竜がすべて消えてなくなった事をみても明らか。
「スモール・イズ・ビューティフル」を読んでいると現在の産業界のイメージが、この消えてしまった恐竜にかさなってきます。

●あれかこれか
なんだか、現代のような難しい時代になってくると、ついつい焦って「あれかこれか、得な方を取る」という考え方になりがちです。「自由か全体主義か」「成長か停滞か」。
しかし、それでは、不幸が別の不幸にとって変わられていくだけで、結局人間の幸福は得られない。「あれとこれの中間でどこを取るのが良いのか」を考える「知恵」を発揮すべき時だと。
この本では、世界のイメージについて、次のように語られています。
そもそも、世界は矛盾で出来ているのであって、それを「あれかこれかか」ですっきりさせて一元化しようとするのは、ムリがあるし、不幸を呼ぶ。そこに、途上国開発のキモも、企業活動のキモもある。幸福は「調度良いところに存在する」。少なすぎるのは不幸だし、多すぎるのは悪である。少なかったら多くするようにし、多すぎる状態になったら少なくする方に動けば良い。常に動的な状態でモノゴトを考える事。いつも調度良い中間地点を求める事。

●疑問を差し挟む余地のない命題もある
それともう一つ、心を打つのは、疑問を差し挟む余地のない命題もある、という認識です。
例えば、労働をして物を作り出したり、人の役に立ったりする、ということは、まともな人間なら誰でもあたりまえにそうするものであって、それは何かの目的(過剰なお金とか)の為にするのでない。疑問の余地なく、人間は労働する存在である。
あるいは、自然を大切にし、守るということは、そういう環境に生活するのが人間らしく、快適であるから、当たり前のように、ごく自然にそうするのであって、何かの目的(資源とか)のためにそうするのではない。疑問の余地なく、人間は環境を守る存在である。
などなど、現代にいたって、ますます我々が忘れてしまった事についてしつこく書かれています。

現代的な不幸というのは、これらの「あたりまえの営み」を、お金の価値に変換せずにはいられないという呪いのせいである(呪いとは書いてませんでしたが...)。
本来、自分の人間らしさのためにする労働の目的をお金を得ることや、他人に勝つことにすりかえてしまうことで、労働者は不幸になるし、都市は病み、地方は疲弊する。

で、最近の事で考えると、著者の憂慮する方向にどんどん向かっているように思います。
例えば、名古屋で議論された生物多様性を背景にした「遺伝子資源」をとってみても、先進国と開発途上国の所有権の争いになっています。その根本にあるのが「生物多様性を資源=カネとして見る」という視点です。
人間も、言うまでもなく生物多様性の一部であって、というより、そもそも生物多様性の中から生まれてきたわけですから、それを失うと言う事は、人類自身の基盤(生物学的にも精神的にも)失うという事です。環境保全は、経済や産業の問題ではなく、倫理や正義の問題です。

この本でも、「人間が作ったものでないもの」を人間が自由にしてはならない。
とシューマッハーさんは主張しています。

なんか、2010年の今だからこそ、読むべき本なのではないかという気がしました。
73年に、この本の著者が指摘したことが、そっくりそのまま今も問題点として残されていて、さらにその症状は悪化しているように思えます。

読み返してみると、本に書いてあることと、それを読んで考えたことがごちゃごちゃになっていて、感想文としてはなんだかな〜、ですが。
その上、きちんと読めているかははなはだアヤシイのですけれど、まあ...。
読んで良かったです。

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